タキボウヨウ




 多 岐 亡 羊






学問の筋道があまりに多方面に展開しすぎて、真理を見失ってしまうこと。
指針や進路など、人生の選択に迷う場面についても使う。
「岐路亡羊」「亡羊之嘆」ともいう。






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列御寇列子』〈説符〉が出典である。



《心都子曰、「大道以多岐亡羊、學者以多方喪生。》



(心都子曰はく、「大道は岐多くして以つて羊を亡ひ、学者は方多くして以つて生を喪ふ。)



中国の戦国時代のこと、楊朱の隣家から逃げ出した一匹の羊を村人が総出で追いかけたが、あまりに分かれ道が多すぎて、結局捕まえ損ねたという話を聞いた楊朱はずっと押し黙っていた挙げ句、学者も同じと言ったと弟子の心都子が伝えている。



大きな道にはいくつものの分かれ道がある。だからこそ、逃げた羊を見失ってしまう。これは学問の道にも置き換えられるというのが楊朱一流の見立てというわけだが、たしかに多くの学者は「木を見て森を見ず」式に視野が狭いという先入観はある。それはある程度、当たっているようにも見えるが、中には時々は引いて見て、全望し自らの位置を確かめながら仕事をする方もおられる。



列子』には「呑舟の魚は枝流に游がず」という言葉もある。大人物は高遠な志を抱いているから、つまらぬ者とは交わらず、細かいことにはこだわらないという意味だが、大志というか、真理というか、本質というか、全体というか、原理原則というか、王道というか、ともあれ、視野広く、しっかりした大局観を持ちたいものだと思うものである。



なお学者でなくとも、それぞれ何かを追究する者ではあるのだから、この戒めには耳を傾けておきたいところ。『列子』の中には、お金持ちになろうと思って泳ぎを習うことを決意するが、ために溺れて死す者の例もあるが、笑うに笑えない話である。



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貝原益軒『和俗童子訓』に用例が見える。



《学問し道をまなぶには、専一につとめざれば、多岐の迷とて、あなたこなたに心うつりて、よき方にゆきとどかざるもの也》



「学を本にして芸を末にする」と説いたことでも知られる貝原益軒のすぐれた教育論によれば、あれこれ手をつけてはいけないということになる。なるほど情報量が圧倒的に増えた今日においても、最終的には「フォーカス&エナジー」しか対策はないのかもしれないと思う。



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正岡子規「獺祭書屋俳話」にも用例がある。



《世人をしてその帰着するところを知らず、竟に多岐亡羊の感を起こさしむるに至れり。》



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戸坂潤「思想と風俗」には次のくだりがある。



《無論仮にも学問的な形を取る以上、どんな哲学でもいつも研究の途上にあるものだから、そこから当然、或る程度の出入りや交錯は避け難い。之をさえ均して了おうとすれば、研究上のテーマの積極性というものは失われるに相違ない。だが何と云っても今日の観念論の陣営の内部の乱麻のような混乱は甚だし過ぎる。――この現象は一つには確かに、観念論の伝統の系統が複雑であることに由来している。夫があまりに複雑であるために、今日に至るまでにそれの整理される余裕がなかったばかりでなく、今日では無理にそれが繊細化される必要に迫られた結果、益々多岐に分れて拾収出来なくなったのに由来している。だがこの伝統の複雑さ自身は何に原因しているかと云えば、それは観念論そのものの根本性質から来ていることを注意しなくてはならない。》



今日はどのような学問でも、このような細分化が進んでいると思われる。観念論の場合は、それ自体の根本性質に由来すると主張するが、、私は学問それ自体の根本性質にも由来すると考えるが、どうだろうか。





ドウセイイゾク




 同 声 異 俗






生まれたばかりのときは誰もが同じような声を出すが、成長すると、教育や習慣といった後天的な養素によって人間性に違いが出るということ。



「生まれて声を同じくし、長じて俗を異にする」の略で、「習与性成」(習い性と成る)ともいう。



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荀子荀子』〈勧学〉を出典とする。



《干越夷貉之子、生而同聲、長而異俗、教使之然也。 》



 (干越夷貉の子、生まれて声を同じくするも、長じて俗を異にするは、教、之をして然らしむるなり。 )



孟子は「性善」説の人、荀子は「性悪」説の人と、型通りに覚えている人が多すぎる。しかし、『荀子』の勧学篇を読むと、そのような図式では誤解を招いてしまうということが分かるだろう。勧学篇を読むと、有名な「出藍の誉れ」を説いている箇所があるし、「駑馬十駕」(非常に劣った駑馬であっても十日馬車を引き、優れた騏驥をも勝ることがあるように、才能がなくても努力することには意味がある)を奨励している箇所もある。これらを忘れて図式化する弊は戒めなければなるまい。「同声異俗」にしても同じことだが、荀子は素質を越える努力に人間の本質を見ようとした思想家なのである。だから、教育を重視する。



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幸田露伴「運命は切り開くもの」に次のような一節がある。



《人相家の方では、世俗の美しいといふのには却て宜しく無く、世俗が醜いといふのに却て宜しいとするのが甚だ多いのでありますが、美醜の論だけに於てさへ前に申しました通り、必ずしも何様の彼様のといふことは定められぬのであります。それで二千年の遠い古の荀子といふ学者さへ非相論を著はして、相貌によつて運命が定められているといふ思想を粉砕して居るのであります。単に相貌から申しますれば、孔子様は陽虎といふ詰らぬ人に酷肖て居られたので人違をされた位ですが、陽虎の人となりや運命が孔子様とは大変な相違であつたことに誰しも異論はありません。》



この伝でいけば、「同声異俗」に倣って「同顔異俗」あるいは「同相異俗」といった新しい四字熟語を創作することもできそうだ。ともあれ、容貌や才能がたとえDNAによって定まっていたとしても、人間の評価などというものは社会的、相対的、後天的に決められてしまうものである以上、荀子露伴の説はいつまでも傾聴に値すると言えるだろう。


ソウシソウアイ




 相 思 相 愛






互いに慕い合い、愛し合っていること。
俗にいう「相惚れ」「両思い」「ラブラブ」。



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田中正造「非常歎願書」に用例がある。



《越へて明治三十四年十二月に至り各地の有志約二千名親しく来りて沿岸被害民を慰問し、谷中川辺二村の人民亦許多の金品寄贈の義挙に接せり。此時に当り海老瀬村松本英一氏ハ自宅を以て仮設臨時病室となし、東京の仏教徒ハ医師及薬価を寄贈し、谷中、利島、川辺、三村を始め其他村々の人民多数此救護の恩に浴せり。而して又東京の基督教徒ハ芝区芝口に病室を設けて多数の患者を収容し、牛込大久保の慈愛館を開きて沿岸数十名の児童を養育し、各貲財を投じて救護の事に尽くせり。蓋し艱難相扶け窮厄相救ふは愛情の発露にして実に人道の至極とする処なり。殊に茨城の古河町新合村、埼玉の川辺利島の二村、及群馬の海老瀬村、我谷中村等ハ互に河流を抱きて隣接するが故に、地勢治水の関係上苦楽を共にするを以て常に相思相愛の情味を脱する能はざるもの存すればなり。夫れ一村を失ふハ一村の災厄に止まらず、小にしてハ比隣の数百村大にしてハ一国の災厄と為るなり。故に若し一朝谷中村を失はゞ海老瀬村亦其存在を危うせざるを得ず。両村相互の関係斯の如く深し。海老瀬村の谷中村に対する同情決して偶然にあらず。》



明治天皇に直訴し足尾鉱毒事件を告発したことで知られる田中正造。この引用はその後、自らの住む谷中村がダム中に沈むことになり、強制廃村となって追い出されることに抵抗した文章の一節である。この頃の正三には聖書の影響が指摘されるが、同じ川の沿岸で隣接する村同士の「相思相愛」を唱えているのは、決して机上の論理ではなく、生活する一市民の観察によって導かれた真の友愛精神であると私は思う。



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舟橋聖一『好きな女の胸飾り』に用例がある。



《見習いになる前後までは相思相愛という風に考えられたこともある。》



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田辺聖子『新源氏物語』にも用例がある。



《源氏を見上げる紫の上。ほんとうに、相思相愛の理想的な恋人同士にみえた。》



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井上ひさし『十二人の手紙』にも用例がある。



《どっちでもいいけど、もう片想いはやめました。どうせ想うなら相思相愛でなくっちゃいやだもの。》



「相思」という語であれば古典の用例も豊富だし、田中正造のような用例ならばともかく、男女の両想いを意味する「相思相愛」という語の用例となると、割に新しいものばかりという印象を受けざるを得ない。



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「どうすれば、相思相愛になれるのか?」



Aさんへ:
申し訳ございません。四字熟語の意味や用例についてなら、それなりにお教えできるはずなのですが、この種の問いには、なんともお答えのしようがございません。どうか、悪しからず、ご了承願います。ただし、切実なその願いが、叶いますことを、陰ながらお祈りするものです。





チソクアンブン




 知 足 安 分






高望みしないこと。自分の身分や境遇に応じ、分をわきまえて満足すること。
「足るを知り分に安んず」とも読む。「知足」と二字で用いることもある。
「安分守己」「一枝巣林」「飲河満腹」「小欲知足」「巣林一枝」「知足守分」「知足常楽」ともいう。



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老子』三三に「知足」という語が出てくる。



知足者冨。》 (足るを知るは冨なり。)



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『遺教経』にも、同様の教えが見える。



《不知足者、雖冨而貧。知足之人、雖貧而冨。》
 (足るを知らざる者、富と雖も貧なり。足るを知るの人、貧と雖も富なり。)


『遺教経』は臨終を前にした釈尊が最後に行った説法である。



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国枝史郎「生死卍巴」に左のごとき用例がある。



《と、その家の窓の辺りから、急に華やかな燈火が射し、高貴な若々しい男の声が、屈託もなさそうに聞こえてきた。
「問題は非常に簡単なのだよ。小慾にあり知足にあるのさ。なるほど、今は生活にくい浮世だ。戦い取ろう、搾り取ろうと、誰も彼も逆上してあせっている。だから私は云うのだよ、慾を少なくして、足るを知れと。つまり浮世と逆行するのだ。その逆行が徹底した時に、桃源郷が現じ出してくる。……誰も彼も桃源郷を求めていながら、誰も彼もが桃源郷を断っている」》



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立松和平「知足安分」には、左のごとく書いてある。



《お金も欲しい。名誉も欲しい。もっともっと欲しい。人から奪っても欲しいとさえ、心の底では考えてしまう。欲望が高じると、自分だけがよくなろうとして戦争まで起こしてしまうのが人類なのだ。それは歴史を見ればすぐにわかる。歴史の内容は、自分が少しでも豊かになろうとしたあげく、戦争の連続なのである。歴史に知足安分小欲知足をあてはめたら、戦争も起こらず、環境問題もなく、人類の歴史もまったく違う平穏なものになったであろう。
 私は自分の個人史の中で知足安分小欲知足に基づいて行動したことを探そうとしたのだが、まったく見つからなかった。私は欲望を小さくしようと努力してきたなどというつもりは、まったくない。それどころか、欲望を生きる力とさえしてきたのである。》






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坪内逍遙「一読三嘆当世書生気質」は〈知足を修身の規矩となせしは封建時代の方便教〉と言うし、J・S・ミル/永峰秀樹訳「代議政体」も〈知足守分と云う性質ある人は、畏るべき対手にあらず〉と言うが、他方では晩年の森鷗外のような人もいて、たとえば「高瀬舟」によって「知足」を世に問うたという解釈がなされることも少なくないようだ。



鷗外が「知足」の二字をどれだけ意識していたかについては疑問もあるが、ともあれ近代を見直す場合、「不足」なのか「知足」なのかというテーマは避けて通れまい。まだまだ「不足」だから飽くなき欲望を追求し、経済成長を目指すという方向が一つ。欲を抑えて持続可能な「知足」を追究するのがもう一つ。しかし、前者がダメなのは、明治の鷗外ですら薄々感づいていたかもしれない。



とはいうものの、立松が正直に告解するように、いまさら小欲に戻ることも不可能である。また逍遙が言うがごとく、「エコ」という方便の下に、封建制を復活させ、戦争や環境破壊を行おうとする権力に「知足」が利用される恐れも否定はできず、警戒が必要だ。「エコ」だの「知足」だのとキャンペーンをしておきながら、一方では自分たちの既得権を守ろうと企む輩は大勢いる。これまで「不足」と言って過度の購買意欲を煽ってきたのも、結局、彼らの利益のためだったという逆説的な構造を甘くみてはなるまい。結局、立松とは違う意味でも、私たちは欲望から逃れることができないのかもしれない。



しかし、そうはいってもやはり、老子に始まり、鷗外を経て、国枝や立松に至る「知足」の水脈というものがもしあるのだとすれば、今の欲にまみれた世にとって、非常に尊いものだと我々は声を大にせざるを得ないのではないだろうか。


ソッタクドウジ




 啐 啄 同 時






絶好の機会。またとないチャンス。
禅の文脈では、師と弟子の呼吸が投合し、悟りを開くことを意味する。
「啐啄同機」「啐啄之機」「啐啄之迅機」などともいう。



「よみうり寸評」(『読売新聞』2010年4月9日夕刊)に「啐啄」が紹介されていた。



《鳥の卵が孵化するときに、ひなが内側から殻をつつくことを〈啐〉といい、これに応じて、母鳥が外から殻をつついて助けることを〈啄〉という◆ひなと母鳥が力を合わせ、卵の殻を破り誕生となる。この共同作業を啐啄というのだが、後に転じて「機を得て両者が応じあうこと」「逸してはならない好機」を意味するようになった》



少しでも時機を逸すると、うまく行かないということは世に少なくないだろう。



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圜悟克勤編『碧巌録』一六則に用例がある。



《所以南院示衆云、諸方只具啐啄同時眼。不具啐啄同時用。》



「諸方の師家には啐啄同時の眼はあるが、啐啄同時のはたらきがない」という南院和尚の言である。「啐啄同時用」とは果たして何かと問うのが、ここでの公案である。読者諸氏、ともに坐られよ。



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幸田文「あとみよそわか」に用例がある。



《親子・他人の別は無い、教へるも習ふも機縁である。啐啄同時は何度云はれたか知れないにもかゝはらず、大抵の場合私がぐづぐづしてゐるうちに、父の方は流れて早き秋の雲、気がついたときはすでに空しく、うしろ影がきらりと光る。》



幸田家の躾、すなわち父・幸田露伴と娘・幸田文との間で行われた教え習いは、この随筆を含めた幸田文の文筆によって今や広く知られるところであろう。しかし、そこに「啐啄同時」の四字熟語が意識されていることは知られているだろうか。そして娘の側は、「啐啄同時」が巧くいかないという思いを持っていた。そうした挫折が、娘・文をして父・露伴のことを書かしむることにつながっているとも言えるわけである。



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立松和平「啐啄同時」に用例がある。



《母もどんなに少なくとも空いた時間があると身体を動かして働こうという気構えに満ちていた。母は道具やモーターを運んでいつも父の仕事を手伝っていたし、母の仕事が間に合わなくなると、父は氷切りをしたり配達をしたりして手伝った。まさに啐啄同時であり、二人なのに一人とも感じられる一如一体のはたらきによって、希望に満ちてはいたがまだよくわからない未来に向かって進んでいこうとしていたのだ。モーター再生屋と氷屋と、どう考えてもお互いに関係なくて奇妙な取り合わせだが、混乱した世相の当時は二つの異質なものさえ一つにしてしまうほどの底知れぬエネルギーに満ちていたのだろう。》



父母が一体となって働くことを、立松は「啐啄同時」と捉えた。出典からは、やや意味が離れている気もしないではないが、夫婦が機を逃さず協働することを「啐啄同時」と言うことが悪いわけではない。むしろそれだけ両親への並々ならぬ敬慕の情がうかがえるだろう。*1





*1:朝日新聞』(2010・4・11朝刊)「惜別」欄に「作家 立松和平さん」という文章が載っていた。そこに文芸評論家・黒古一夫のコメントがあるが、これは立松の描いた両親の「啐啄同時」を裏づける証言とも言えるので、引用したい。「今年こそお父さんを書くと言っていた。満州で現地召集され、敗戦でシベリアに送られる途中、脱走して立松さんのお母さんの元に帰ってきた人。その小説は実現しない。本当に心残りでしょう」。

シュンプウタイトウ




 春 風 駘 蕩






春風がそよそよと気持ちよく吹くのどかな様子。
春風のように穏やかなさま。穏和でのんびりした人柄。



「春光駘蕩」「春色駘蕩」ともいう。「駘蕩」は「駘宕」と書くことも。
いずれにせよ「秋霜烈日」という四字熟語と、著しい対照をなす。



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小栗風葉『恋慕ながし』に用例がある。



《「花やあらぬ初桜の、祇園林下河原、南を遙に眺むれば、大慈応護の薄霞----
と華やかに吹き込んで、陽艶三月、春風駘蕩の調に移ったのに、奏者の息は益々迫って、聴者は弥々聞苦しくなるばかり。姿勢は頽れて、指は外れて、然しも昔のまゝの贔負を嘱し一部の人も、少し意外の心持である。》



『恋慕ながし』というテクストは、たとえば〈音楽と文学〉などというテーマに関心がある向きには必ず参照してほしい、密に表現分析をしてほしいと以前からひそかに切望していたものなのだが、この引用からもそうした雰囲気の一端がうかがい知れよう。調べを説明するのに「春風駘蕩」という四字熟語を用いるところ、今日ではあまり見ない例かもしれない。



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横光利一旅愁』にも用例がある。



《「僕は婦人に対してだけは、むかしから春風駘蕩派だからな。何をしたか君なんか知るものか。」》



フェミニストと同義なのだろうが、フェミニストと言うのとは微妙にニュアンスが異なるから妙なものだ。「春風駘蕩」という四字熟語を使うことによって、女性に対して優しい男性像が思い浮かぶと同時に、だらしなく鼻の下を伸ばして、でれっとしている男性像も想起される。



横光利一には『上海』に「人の流れは祭りのように駘蕩として、黄色の招牌の下から流れて来た」という用例があり、『家族会議』にも「春風駘蕩としてゐて起居動作が日常と少しも変っていなかった」という用例がある。



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太宰治津軽』にも用例がある。少し長めに引用する。






《「これは、いかん。」と言つた。「科学の世の中とか何とか偉さうな事を言つてたつて、こんな凶作を防ぐ法を百姓たちに教へてやる事も出来ないなんて、だらしがねえ。」
「いや、技師たちもいろいろ研究はしてゐるのだ。冷害に堪へるやうに品種が改良されてもゐるし、植附けの時期にも工夫が加へられて、今では、昔のやうに徹底した不作など無くなつたけれども、でも、それでも、やつぱり、四、五年に一度は、いけない時があるんだねえ。」
「だらしが無え。」私は、誰にとも無き忿懣で、口を曲げてののしつた。
 N君は笑つて、
「沙漠の中で生きてゐる人もあるんだからね。怒つたつて仕様がないよ。こんな風土からはまた独得な人情も生れるんだ。」
「あんまり結構な人情でもないね。春風駘蕩たるところが無いんで、僕なんか、いつでも南国の芸術家には押され気味だ。」
「それでも君は、負けないぢやないか。津軽地方は昔から他国の者に攻め破られた事が無いんだ。殴られるけれども、負けやしないんだ。第八師団は国宝だつて言はれてゐるぢやないか。」
 生れ落ちるとすぐに凶作にたたかれ、雨露をすすつて育つた私たちの祖先の血が、いまの私たちに伝はつてゐないわけは無い。春風駘蕩の美徳もうらやましいものには違ひないが、私はやはり祖先のかなしい血に、出来るだけ見事な花を咲かせるやうに努力するより他には仕方がないやうだ。いたづらに過去の悲惨に歎息せず、N君みたいにその櫛風沐雨の伝統を鷹揚に誇つてゐるはうがいいのかも知れない。》






なるほど、北国・津軽の歴史は、凶作との戦いに尽きよう。そして、そうした風土に育まれた人間が、春風駘蕩であろうはずもない。なお、対義語に「秋霜烈日」ではなく「櫛風沐雨」という四字熟語を用いていることにも目を止めておこう。



ついでながら、太宰治は「春風駘蕩」という四字熟語がお気に入りであったようだ。他の作家に比べて圧倒的に用例が多い。管見のかぎり、『津軽』の他にも『右大臣実朝』「散華」「新釈諸国噺」『惜別』『パンドラの匣』に用例があった。おそらく誰も指摘していないだろうから、昭和18年から昭和20年の間に集中しているということを指摘しておこう。



なお、『右大臣実朝』の用例については、円満字二郎太宰治の四字熟語辞典』を参照のこと。



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吉川英治『忘れ残りの記』にも用例がある。



《酒を愛し、郷人を愛し、いつも春風駘蕩といったような大人風な好々爺であったらしい。》



太宰治が南北の別で「春風駘蕩」の四字を想起するのに対して、吉川英治は老若の別で「春風駘蕩」を想起した。



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 春風をあふぎ駘蕩象の耳   山口青邨 》






俳句の世界でも「春風駘蕩」の四字熟語は欠かせぬと見える。たとえば、近代の俳句に大きな影響を与えた『日本人』という雑誌には「我国に在りて春光駘蕩、最も人心を暢快ならしむるは四月の候と為す」(「春」)という一節があるほどだ*1。というわけで、俳句における用例は枚挙に暇がないのだが、私は特に掲句が好きだ。ほのぼのする。「駘蕩」はまさに象のためにこそ存在する擬態語なのだと思えてしまう。


                            

*1:『日本人』明治34年2月

シギョシカン




 史 魚 屍 諌






史魚のように、自らの亡骸によって主君をいさめること。
史魚は、衛の大夫・史鰌のこと。官は史、名は鰌、字は子魚である。正直な男として知られる。
「史魚屍諫」「史魚至忠」「史魚黜殯」「史魚之直」「史魚秉直」「史鰌屍諌」ともいう。*1



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隷書の手本として非常に名高い「曹全碑」という碑文には次の頌詞がある。



 「清擬夷斉 直慕史魚
  (清きこと夷斉に擬し、直きこと史魚を慕ふ)



要するに、曹全という人物は、清廉においては伯夷叔斉、正直においては史魚のようだったと、生前の徳を頌えているのである。



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韓嬰『韓詩外伝』七が出典である。
《昔、衛の大夫史魚病みて且に死せんとするに、其の子に謂ひて曰く、「我数ゝ蘧伯玉の賢を知れども進む能はず、弥子瑕の不肖なれども退く能はざれば、死するも当に喪を正堂に居おくべからず、我を側室に殯すれば足れり」と。衛君其の故を問ふ。子父言を以て君に聞す。君乃ち伯玉を召して之を貴び、彌子瑕は之を退け、殯を正堂に徙し、礼を成して後ち去る》
平たく言えば、史魚はいまわの際に、息子にこう遺言したということである。「王を正しく導けなかった無能な自分の亡骸に、葬式・埋葬の類は一切無用である。ただ窓の下に放置しておいてくれ」と。死後、弔問に訪れた王・霊公がその無惨な遺体を見て、愕然とし、大いに反省したことはいうまでもない。厚く葬儀を執り行ったのはもちろん、生前の史魚の諌めに従い、優れた蘧伯玉を登用し、愚かな弥子瑕をクビにしたというわけである。孔子は、死後に王を諌めた最初の例として史魚を絶賛した。



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李瀚編『蒙求』徐子光補注本の標題にも用例がある。



 「史魚黜殯 子嚢城郢」



史魚は諫を果たすべく自らの殯礼を黜けよと遺言し、子嚢は自分の果たせなかった郢の築城を遺言した。



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呉兢撰『貞観政要』にも、杜如晦の言の中に用例が見える。
《杜如晦対へて曰く、天子に諍臣有れば、無道なりと雖も、其の天下を失はず。仲尼称す、直なるかな史魚。邦、道有るも矢の如く、邦、道無きも矢の如し、と。世基、豈に煬帝の無道なるを以て、諌諍を納れざるを得んや。遂に口を杜ぢて言ふ無く、重位に偸安し、又、職を辞し退を請ふ能はざるは、則ち微子が佯狂にして去ると、事理、同じからず。》
杜如晦は、史魚の例によって、煬帝を諌めなかった虞世基を批判する。



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中島敦『弟子』に史魚の名が出てくる。



《「それは何も一身の保全ばかりが大切とは言わない。それならば比干を仁人と褒めはしないはずだ。但、生命は道のために捨てるとしても捨て時・捨て処がある。それを察するに智をもってするのは、別に私の利のためではない。急いで死ぬるばかりが能ではないのだ。」
 そう言われれば一応はそんな気がして来るが、やはり釈然としない所がある。身を殺して仁を成すべきことを言いながら、その一方、どこかしら明哲保身を最上智と考える傾向が、時々師の言説の中に感じられる。それがどうも気になるのだ。他の弟子達がこれを一向に感じないのは、明哲保身主義が彼等に本能として、くっついているからだ。それをすべての根柢とした上での・仁であり義でなければ、彼等には危くて仕方が無いに違いない。
 子路が納得し難げな顔色で立去った時、その後姿を見送りながら、孔子が愀然として言った。邦に道有る時も直きこと矢のごとし。道無き時もまた矢のごとし。あの男も衛の史魚の類だな。恐らく、尋常な死に方はしないであろうと。》


*1:「孟軻養素」の項 http://d.hatena.ne.jp/Cixous/20100221も参照のこと。