ショウシンヨクヨク




 小 心 翼 翼



気が小さく、臆病なさま。
もともとは慎重で注意深く、恭しいさまを表す語であったが、転意した。



同義語に「萎縮震慄」「跼天蹐地」「細心翼翼」「小心謹慎」「小心小胆」「戦戦恐恐」「戦戦慄慄」「風声鶴唳」がある。



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詩経』〈大雅・大明〉に古い例がある。



《維此文王、小心翼翼。 昭事上帝、聿懷多福。》



(維れ此の文王、小心翼翼たり、昭かに上帝に事へ、ここに多福を懐く)



「よく気を配り、天意に従い、人民の幸福に思いを馳せる」聖人君子として、文王を称えている。ここでの「小心翼翼」が本義、よいニュアンスで使われている。



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福沢諭吉学問のすすめ』に用例がある。



《元来、人民と政府との間柄はもと同一体にてその職分を区別し、政府は人民の名代となりて法を施し、人民は必ずこの法を守るべしと、固く約束したるものなり。譬へば今、日本国中にて明治の年号を奉ずる者は、今の政府の法に従ふべしと条約を結びたる人民なり。ゆゑにひとたび国法と定まりたることは、たといあるいは人民一個のために不便利あるも、その改革まではこれを動かすを得ず。小心翼翼謹みて守らざるべからず。これすなはち人民の職分なり。》



国家の法律は謹んで守れと主張している。この用例も、本義の通りである。



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太宰治「鉄面皮」にも用例がある。



《鉄面皮。このお面をかぶつたら大丈夫、もう、こわいものはない。鉄面皮。つくづくと此の三字を見つめてゐると、とてもこれは堂々たる磨きに磨いて黒光りを発してゐる鉄仮面のやうに思はれて来た。鋼鉄の感じである。男性的だ。ひよつとしたら、鉄面皮といふのは、男の美徳なのかも知れない。とにかく、この文字には、いやらしい感じがない。この頑丈の鉄仮面をかぶり、ふくみ声で所謂創作の苦心談をはじめたならば、案外荘重な響きも出て来て、そんなに嘲笑されずにすむかも知れぬ、などと小心翼々、臆病無類の愚作者は、ひとり淋しくうなづいた。》



「臆病無類」と並立されていることからも分かるように、ここらあたりではすでに「臆病」の意に転じている。太宰治は、この意味の小心翼翼を多用する作家だが、特にこの「鉄面皮」では三箇所、用例を見出すことができる。



割愛するが、梶井基次郎「路上」や大佛次觔『帰郷』にもカリカチュア的な用例があり、昭和期に、臆病すぎて滑稽な俗物であるという批判的(否定的)ニュアンスへの転意が進み、定着したと考えられる。



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林京子「再びルイへ。」にも用例が見える。



《賢人の教えを借りて育った判断は、はて? と首を傾げることが多くなりました。何より疑問に思うのは、人の性は善ではないのではないか。善を行うには少なからず努力がいる。悪は、努力しなくとも自然に行動できます。多少の痛みはともないますが、わたしの善と悪は、小心よくよくの代物。小さな悪を成したときには、ささやかな達成感さえ感じる。
 性は、わたしの性は、悪なのかもしれない。自我の芽ばえで、どこかで善と悪が入れ替ったのでしょう。"何でもあり”の世の中ですから、凡人はすぐに染まります。》



「よくよく」は、ママ。最近の用例を引いたが、これは性善説ではなく、性悪説を支持する言説である。つまり、かつて聖人君子を称えるために使われた四字熟語が、平成では完全に逆転し凡人を卑しめるために用いられるようになったことが分かるだろう。