ショウシンヨクヨク




 小 心 翼 翼



気が小さく、臆病なさま。
もともとは慎重で注意深く、恭しいさまを表す語であったが、転意した。



同義語に「萎縮震慄」「跼天蹐地」「細心翼翼」「小心謹慎」「小心小胆」「戦戦恐恐」「戦戦慄慄」「風声鶴唳」がある。



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詩経』〈大雅・大明〉に古い例がある。



《維此文王、小心翼翼。 昭事上帝、聿懷多福。》



(維れ此の文王、小心翼翼たり、昭かに上帝に事へ、ここに多福を懐く)



「よく気を配り、天意に従い、人民の幸福に思いを馳せる」聖人君子として、文王を称えている。ここでの「小心翼翼」が本義、よいニュアンスで使われている。



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福沢諭吉学問のすすめ』に用例がある。



《元来、人民と政府との間柄はもと同一体にてその職分を区別し、政府は人民の名代となりて法を施し、人民は必ずこの法を守るべしと、固く約束したるものなり。譬へば今、日本国中にて明治の年号を奉ずる者は、今の政府の法に従ふべしと条約を結びたる人民なり。ゆゑにひとたび国法と定まりたることは、たといあるいは人民一個のために不便利あるも、その改革まではこれを動かすを得ず。小心翼翼謹みて守らざるべからず。これすなはち人民の職分なり。》



国家の法律は謹んで守れと主張している。この用例も、本義の通りである。



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太宰治「鉄面皮」にも用例がある。



《鉄面皮。このお面をかぶつたら大丈夫、もう、こわいものはない。鉄面皮。つくづくと此の三字を見つめてゐると、とてもこれは堂々たる磨きに磨いて黒光りを発してゐる鉄仮面のやうに思はれて来た。鋼鉄の感じである。男性的だ。ひよつとしたら、鉄面皮といふのは、男の美徳なのかも知れない。とにかく、この文字には、いやらしい感じがない。この頑丈の鉄仮面をかぶり、ふくみ声で所謂創作の苦心談をはじめたならば、案外荘重な響きも出て来て、そんなに嘲笑されずにすむかも知れぬ、などと小心翼々、臆病無類の愚作者は、ひとり淋しくうなづいた。》



「臆病無類」と並立されていることからも分かるように、ここらあたりではすでに「臆病」の意に転じている。太宰治は、この意味の小心翼翼を多用する作家だが、特にこの「鉄面皮」では三箇所、用例を見出すことができる。



割愛するが、梶井基次郎「路上」や大佛次觔『帰郷』にもカリカチュア的な用例があり、昭和期に、臆病すぎて滑稽な俗物であるという批判的(否定的)ニュアンスへの転意が進み、定着したと考えられる。



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林京子「再びルイへ。」にも用例が見える。



《賢人の教えを借りて育った判断は、はて? と首を傾げることが多くなりました。何より疑問に思うのは、人の性は善ではないのではないか。善を行うには少なからず努力がいる。悪は、努力しなくとも自然に行動できます。多少の痛みはともないますが、わたしの善と悪は、小心よくよくの代物。小さな悪を成したときには、ささやかな達成感さえ感じる。
 性は、わたしの性は、悪なのかもしれない。自我の芽ばえで、どこかで善と悪が入れ替ったのでしょう。"何でもあり”の世の中ですから、凡人はすぐに染まります。》



「よくよく」は、ママ。最近の用例を引いたが、これは性善説ではなく、性悪説を支持する言説である。つまり、かつて聖人君子を称えるために使われた四字熟語が、平成では完全に逆転し凡人を卑しめるために用いられるようになったことが分かるだろう。


ドクガクコロウ




 独 学 孤 陋






師匠に就いたり学友に交わったりせず一人で学ぶと、見聞が狭く独りよがりになるということ。
「独学固陋」とも書く。「孤陋寡聞」とも言う。



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戴聖編『礼記』〈学記〉が出典である。



獨學而無友、則孤陋而寡聞。》



 (独学にして友無ければ、則ち孤陋にして寡聞なり。)



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五井蘭洲『非物篇』に、次の用例がある。



《非に曰く、嗚呼徂徠門を杜して書を読み、世と相渉らず、時に詰り問ふ者有るや、輒ち曰く、「習ひ異にし対を置かず。是れ我が家法」と。是を以て栄邁余り有りと雖も、亦た終に独学固陋に免れず。》



懐徳堂の五井蘭洲は、名は純禎、字は子祥、藤九郎と通称し、蘭洲あるいは冽庵と号した。



引用文は荻生徂徠の『論語徴』を批判したくだりである。昌平黌が幕臣に閉じた学校であったのと対照的に、懐徳堂は商人にも開かれた学校であった。懐徳堂には常に世の中と交渉し、学習者の質問にも積極的に応じようとする姿勢があった。



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永井荷風「正宗谷崎両氏の批評に答う」に、次の用例がある。



《わたくしは最初雇われた時から、無事に三個年勤められれば満足だと思っていた。三年たてば三田の学窓からも一人や二人秀才の現れないはずはない。とにかくそれまでの間に、森先生に御迷惑をかけるような失態を演じ出さないようにと思ってわたくしは毎週一、二回仏蘭西人某氏の家へ往って新着の新聞を読み、つとめて新しい風聞に接するようにしていた。三年の歳月は早くも過ぎ、いつか五年六年目となった。もともとわたくしは学ぶに常師というものがなかったから、独学固陋の譏りは免かれない。それにまた三田の出身者ではなく、外から飛入りの先生だから、そう長く腰を据えるのはよくないという考もあった。わたくしの父は、生前文部省の役人で一時帝国大学にも関係があったので、わたくしは少年の頃から学閥の忌むべき事や、学派の軋轢の恐るべき事などを小耳に聞いて知っていた。しかしこれは勿論わたくしが三田を去った直接の原因ではない。わたくしの友人等は「あの男は生活にこまらないからいつでも勝手気儘な事をしているのだ」といってその時も皆これを笑った。谷崎君の批評にも正宗君の論文にもわたくしが衣食に追われていない事が言われている。これについてわたくしは何も言う事はない。唯一言したいのは、もしわたくしが父兄を養わなければならぬような境遇にあったなら、他分小説の如き遊戯の文字を 弄ばなかったという事である。わたくしは夙くから文学は糊口の道でもなければ、また栄達の道でもないと思っていた。これは『小説作法』の中にもかいて置いた。》



思わず長い引用となったのは、荷風が「独学固陋」であることをある意味、開き直っているのが少し面白いと感じたからである。



荷風散人はさも「独学はなるほど孤陋だが、学閥にまみれているのも、生活に追われているのもまた固陋でないか」とでも言いたげな口ぶりである。



文学史通には言わずもがなの註釈だが、「森先生」とは森鷗外のこと。森鷗外の紹介で荷風は三田、すなわち慶應義塾大学の教壇に立つことができた。



「正宗谷崎両氏」とは、正宗白鳥谷崎潤一郎のことである。
何に対して答えたかというと、正宗白鳥永井荷風論」と谷崎潤一郎永井荷風氏の近業について―『つゆのあとさき』を読む―」である。



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岡本かの子上田秋成の晩年」にも用例がある。



《彼はこの時までに俳諧では高井凡圭、儒学は五井蘭州、その他都賀庭鐘、建部綾足、といふやうな学者で物語本の作者である人々についても、すこしは教へを受けたが、大たいはその造詣を自分で培つた。それも強ひて精励努力したといふわけでは無い。幼年から数奇な運命は彼の本来の性質の真情を求めるこころを曲げゆがめ、神秘的な美欲や愛欲や智識欲の追躡といふやうな方面へ、彼の強鞣な精神力を追ひ込み、その推進力によつて知らぬ間に、彼の和漢の学に対する蘊蓄は深められてゐた。彼の造詣の深さを証拠立てる事は彼が三十五歳雨月物語を成すすこし前、賀茂真淵直系の国学者で幕府旗本の士である加藤宇万伎に贄を執つたが、この師は彼の一生のうちで、一番敬崇を運び、この師の歿するまで十一年間彼は、この師に親しみを続けて来たほどである。この宇万伎は、彼が入門するとたちまち弟子よりもむしろ友人、あるひは客員の待遇をもつて、彼に臨み、死ぬときは、彼を尋常一様の国学者でないとして学問上の後事をさへ彼に托した。そして、この間に彼の名もそろそろ世間に聞え始めてゐた。しかし、それほどの師にすら、秋成の現実の対照に向つては、いつも絶対の感情の流露を許さぬ習癖が、うそ寒い疑心をもち師のいひし事にもしられぬ事どもあつて、と結局は自力に帰り、独窓のもとでこそ却て研究は徹底すると独学孤陋の徳を讃美して居る。》



これまた引用が長くなったのは、先に出てきた五井蘭洲が再び出てくることを示そうと狙ったことに加え、荷風散人同様、「独学孤陋」に居直っている例と思ったからである。



ちなみに「上田秋成の晩年」の書き出しは、こうであった。「文化三年の春、全く孤独になつた七十三の翁、上田秋成は京都南禅寺内の元の庵居の跡に間に合せの小庵を作つて、老残の身を投げ込んだ。/孤独と云つても、このくらゐ徹底した孤独はなかつた。」



かの子の関心は「徹底した孤独」、すなわち「独学孤陋」に向いていたと評して差し支えないだろう。





ダイタンフテキ



 大 胆 不 敵 






度胸が据わっていて、動じたり恐れたりしないこと。
「豪快奔放」「剛毅果断」「広壮豪宕」「剛胆無比」「大胆千万」「大胆奔放」ともいう。



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近松門左衛門国性爺合戦』に用例がある。



《「御聞き及びも候はん某は古への鄭芝龍と申す者、只今の妻や子は日本の者にて候へども、旧恩を報ぜずんば忠臣の道立つべからず。某こそ年よつたれこの忰兵事軍術を嗜み、御覧のごとく骨ぶとに生れ付き大膽不敵の強力者。今一度大明の恩代にひる返し、冥途にまします先帝の宸襟をやすんじ奉らん。恩心やすく思し召せ」》



松浦の住吉に詣でて浜伝いに帰るとき、一官夫婦は、栴檀皇女と不思議な瑞夢のように出会う。



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萩原朔太郎「僕等の親分」(『蝶を夢む』)に、次の用例がある。



《僕等の親分は自由の人で
 青空を行く鷹のやうだ。
 もとより大膽不敵な奴で
 計畫し、遂行し、豫言し、思考し、創見する。
 かれは生活を創造する。
 親分!》



「親分」とは、私たちの理想である。理想の生き方をするには、肝が据わっていることが絶対条件。



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織田作之助「聴雨」にも用例がある。



《彼の棋風は、「坂田将棋」といふ名称を生んだくらゐの個性の強い、横紙破りのものであつた。それを、ひとびとは遂に見ることが出来なくなつた。かつて大崎八段と対局した時、いきなり角頭の歩を突くといふ奇想天外の手を指したことがある。果し合ひの最中に草鞋の紐を結ぶやうな手である。負けるを承知にしても、なんと不逞々々しい男かと呆れるくらゐの、大胆不敵な乱暴さであつた。棋界は殆んど驚倒した。》



将棋を指す人ならば知っているが、初手の角頭歩突きは、アマチュアでもやる人がいない筋悪の手である。それをオダサクは「草鞋」の比喩と「大胆不敵」という四字熟語で表現した。ちなみに「彼」とは阪田三吉のことであり、大崎八段とは大崎熊雄のことである。



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原田マハ「エトワール L'étoile」にも用例がある。



《彼――エドガー・ドガという画家の名を、メアリーはありありと思い出した。七年まえ、サロンでみつけたあの画家だった。周囲との不協和音をものともせず、たったいま落馬してしまった騎手の場面を観衆に突き付けた、ぞくぞくするほど大胆不敵な画家。あのとき、すでに感じ取っていたのだ。変容の空へと軽やかに羽ばたきを始めているこの街に、サロンという古風なシステムはなんと似つかわしくないことか。それに反して変わりつつあるパリの鼓動と同じリズムで脈打つ心臓のような、生々しくて風変わりな一枚の絵。ドガの絵は、彼女の胸の奥底にずっとしまわれていたのだ。》



「たったいま」には、傍点。



「大胆不敵」な人は、不協和音を鳴らすが、強烈な衝撃を与える。ドガという画家もまた、「大胆不敵」という四字熟語で形容するのがよいようだ。



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「小心翼翼」たる身、たまには「親分」よろしく「大胆不敵」に憧れてみるのものの、そうはいってもやはり、怪我をするのが怖くて、躊躇してしまうのはが凡人の性というものか。





ドクショサントウ




 読 書 三 到






読書するには、眼でよく見て(眼到・看読)、口で音読し(口到・音読)、心で会得する(心到・心読)ことが大切だという教え。



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朱熹「訓學齋規」が出典である。



讀書有三到、謂心到、眼到、口到。三到之中、心到最急。》



 (読書に三到有り。心到、眼到、口到を謂ふ。三到の中、心到最も急なり。)



文中の「心到最も急なり」とは、心で理解することが最も大切という意味である。なお『童蒙須知』にも「讀書要字々響亮、心到、眼到、口到」とある。



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小林秀雄「読書について」に用例がある。



《読書百遍とか読書三到とかいう読書に関する漠然たる教訓には、容易ならぬ意味がある。おそらく後にも先にもなかった読書の達人、サント・ブウヴも、漠然たる言い方は非常に嫌いであったが、読書については、同じように曖昧な教訓しか遺さなかった。
「人間をよく理解する方法は、たった一つしかない。それは、彼らを急いで判断せず、彼らの傍らで暮らし、彼らが自ら思うところを言うに任せ、日に日にのびてゆくに任せ、ついに僕らのうちに、彼らが自画像を描き出すまで待つことだ。
 故人になった著者でも同様だ。読め、ゆっくりと読め、成り行きに任せたまえ。ついに彼らは、彼ら自身の言葉で、彼ら自身の姿を、はっきり描き出すに至るだろう。」》



サント・ブーヴの引用を含むため、長い引用になったが、小林秀雄が指摘するごとく、古今東西、読書の極意については漠然と語るより仕方がないようだ。



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紀田順一郎読書三到―新時代の「読む・引く・考える」』は、書名自体が用例となっている。



今日においては、もはや古典的な意味のままでの「読書三到」の実現は至難であろうが、本質は変わらないと信じたいものである。





シリメツレツ




 支 離 滅 裂






統一がなく、ばらばらで筋道が立っていないこと。めちゃくちゃ。
「四分五裂」「乱雑無章」ともいう。



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坂口安吾「篠笹の陰の顔」に用例がある。



《発狂といつても日常の理性がなくなるだけで、突きつめた生き方の世界は続いてゐる。むしろ鋭くそれのみ冴えてゐるのである。一見支離滅裂な喚きでも、真意の通じる陰謀政治家が発狂してゐないと断言したのは当然で、ほかの家族は発狂と信じてゐた。これも亦自然である。》



この作家ならではの「支離滅裂」の捉え方というべきだろう。一方では発狂に見えるが、他方では日常の理性が失われただけという二重相であるという認識は、ファルスの肯定から始発したこの作家に終始一貫していたというべきだろう。



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石坂洋次郎「若い人」に用例がある。



《反対の場合には彼は吃りがちで支離滅裂にしか語れない。》



人間はいつも論理的で理路整然としているわけではない。殊に反対意見ということになれば、感情的、あるいは反射的な要素も加わってくるだろう。鋭い人間観察に基づいている。



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源氏鶏太『天上大風』にも用例はある。



《「僕は、社長を辞めたくなったよ。」
 「こいつ、ゼイタクをいってらア。しかし、辞めたかった、辞めろよ。」
 「しかし、いま、辞めるわけにはいかん。意地にでも、僕は、辞めないよ。」
 「いうことが、何んだか、シリメツレツだな。」》



酒場でのサラリーマンの愚痴は、だいたいこういうものだ。この場合、実権のない社長だが、事情は同じである。そして、そういう矛盾というか、「シリメツレツ」に温かい目を注ぐのが、言葉の正しい意味でのユーモア小説家の力量というべきだろう。



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北杜夫『楡家の人びと』に用例がある。



《その支離滅裂な叫び、酒に濁って血走ったその目の奥に、城木は人間の持つもっとも原初的な感情、死への恐怖の情をちらと垣間見たような気がした。》



トーマス・マンの『ブッデンブローク家の人びと』を踏まえる『楡家の人びと』の良さは、一言で言えば「支離滅裂」の肯定にあると要約できるだろう。





カンカンガクガク




 侃 々 諤 々 






遠慮なく意見を言い合い、議論が白熱する様子。忌憚なく、直言すること。
略して「侃諤」ともいう。「諤諤之臣」「議論百出」「剛毅正直」「談論風発」「直言極諫」「廷諍面折」「百家争鳴」「面折廷諍」ともいう。



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孔子論語』〈郷党〉を一方の出典とする。



《朝與下大夫言、侃侃如也。》
 (朝にて下大夫と言ふとき、侃侃如たり。)



司馬遷史記』〈商君伝〉が他方の出典となる。



《千人之諾諾、不如一士之諤諤。》
 (千人の諾々も、一士の諤々に如かず。)



論語』の「侃侃」と『史記』の「諤諤」を合成して「侃侃諤諤」となった。



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石川天崖『東京学』に用例がある。



《此の下相談といふ事は大概の集会に於て行はれて居て、侃々諤々正議是れ重んずるといふ人士は何時も其の仲間に入れない様な事になるのである。》



これは『東京学』の「団体及び其の操縦法」という第九章に記される一節であるが、「下相談」すなわち根回しという風習を、このように傍観的に説明することによって皮肉っている。天崖は、議会でもそのようになっていると、さらに筆を続けていく。



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菊池寛「若杉裁判長」に次のような例がある。



《その晩、寄宿舎へ帰ってからも、そうした不正に対する義憤は、なかなか静まりませんでした。床に就いてからも、またそのことを思い続けていました。その時にふと、将来法律を学んで、こうした無辜の人々のために、侃諤の弁を振ってみようかという考えが、若杉さんの心に浮びました。》



「侃諤」という語は、もともと剛直という語感があり、正義のニュアンスを帯びている。「若杉さん」というのは、若杉浩三という裁判長のことである。「不正」というのは、ミルク屋で警察が捕縛する様子を見物していたひとりが刑事とぶつかり、刑事に暴言を吐かれて反抗したら、それだけで逮捕されてしまった一事を指している。こうした理不尽がきっかけとなって若杉は、判事になったというわけだ。



ちなみに、菊池寛には「話の屑籠」にも〈十年前二十年前には、まだかんかんがくがくの議論が、きかれた。今は、新聞などでも、みんな顧みて他を云つてゐる感じしかしない〉という用例がある。漢字が難しいため、ひらがなにしている。



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久米正雄「良友悪友」からも引用する。



《而してかう云ふ風に醒めて来ると、自分の凡才が憐まれると同時に、彼等のさうした思ひ上つた警句や皮肉が、堪らなく厭になつて来るのだつた。そこでたとひ第一義的な問題に就いての、所謂侃々諤々の議論が出ても、それは畢竟するに、頭脳のよさの誇り合ひであり、衒学の角突合であり、機智の閃めかし合ひで、それ以上の何物でもないと、自ら思はざるを得なくなつて来るのだつた。
 私は急に口を噤んで、考へ込んで了つた。》



この用例からは「侃々諤々」への否定的な見解がうかがえる。なるほど、ただのひけらかしに堕してしまっているようなケースは、学会などでよく見かける光景であろう。





センペンバンカ




 千 変 万 化






種々さまざまに変化すること。めまぐるしく変転し、極まりがないさま。
単に「変化」といい、「千変万幻」「動揺流転」「変幻自在」ともいう。



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列御寇列子』〈湯問〉が出典である。



《穆王驚視之、趣歩俯仰、信人也。巧夫顉其頤、則歌合律。捧其手、則舞應節。千變萬化、惟意所適。王以為實人也、與盛姫内御並觀之。》



歌って踊れる人形、すなわちロボットのお話である。まるで本物の人間のように巧みに動くといい、その様子を表現して「千變萬化」という。



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兼明親王「莵裘賦」(『本朝文粋』)に用例がある。



《……萬物云生、或消或息。風雨陶冶、寒暑廻薄。千變萬化、有何常則。……》



 (万物云に生り、或は消え或は息る。風雨陶冶し、寒暑廻薄す。千変万化、何の常則か有らむ。)



「鵩鳥賦」にも「安有常則、千変万化兮」とあることから、「常則」すなわち決まった法則はないというのが「千変万化」の文脈と言えそうだ。



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寺田寅彦「映画雑感IV」に用例がある。



《しかしなんといってもこの映画でいちばんおもしろいのは、いろいろな幻影のレヴューである。観客はカメラとなって自由自在に空中を飛行しながら生きた美しい人間で作られたそうして千変万化する万華鏡模様を高空から見おろしたり、あるいは黒びろうどに白銀で縫い箔したような生きたギリシア人形模様を壁面にながめたりする。それが実に呼吸をつく間もない短時間に交互錯綜してスクリーンの上に現滅するのである。》



「この映画」とはレイ・エンライト監督の「泥酔夢 Dames」(米 1934年)を指しているのだが、空中遊泳は映画によって初めて体感できる新感覚であった。寺田寅彦はじめ当時の観客が、俯瞰のアングルと映画特有の速度や技法が相まっての「千変万化」に幻惑され、翻弄されたことは想像できないでもない。



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夢野久作「鼻の表現」に用例がある。



《大袈裟なところでは眉が逆立ちをしたり、眼が宙釣りになったり、口が反りくり返ったりします。デリケートなところでは唇がふるえたり、眼尻に漣が流れたり、眉がそっと近寄ったりします。その他頬がふくれたり、顳がビクビクしたり、歯がガッシガッシしたりする。しまいには赤い舌までが飛び出して、上唇や下唇をなめずりまわし、又はペロリと長く垂れ下ったりします。
 その上に足の踏み方、手の動かし方、肩のゆすぶり方、腰のひねり方、又はお尻の振り方なぞいう、顔面表現の動的背景ともいうべき大道具までが参加して、縦横無尽千変万化、殆ど無限ともいうべき各種の表現を行って着々と成果を挙げているのであります。
 然るにその中央のお眼通り正座に控えた鼻ばかりはいつも無でいるようであります。只のっそりぼんやりとかしこまったり、胡坐をかいたり、寝ころんだりしております。精々奮発したところで暑い時に汗をかいたり、寒い時に赤くなったりする位の静的表現しか出来ない。たまに動的表現が出来たかと思うと、それは美味しいにおいを嗅ぎ付けてヒコ付いたのであったなぞいう次第であります。どちらにしても恐ろしく低級な、殆ど無いと云ってもいい位な表現力しか持たぬものとして、人類の大部分に諦められているようであります。》



表情豊かな他の器官に比べて、鼻が「不変不動」であることに着目するというユニークな一篇である。〈「鼻の表現能力は、その無表現のところに在る……/無から有を生ずるところに在る……/不変不動のまま千変万化するところにある……/造化の妙理、自然の大作用はここにも窺う事が出来る……」〉という箇所もある。いかにも夢野久作というナンセンスだ。



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林芙美子「秋果」にも用例はある。



《一ヶ月ぐらひして米倉はおめかしをしてもんをたづねて來た。もんの生れ故郷をきくでもなければ、何のためにこの蘇州まで來たのかときくでもなく、米倉は結婚話を持ち出した。もんは心のうちに、工藤以外にはもうすべての男に對して何の興味もない自分の年齡を知つてゐた。よその女のひとよりも早く女の終りが來たのかと、もんは淋しいと思ふ時があつたけれど、工藤に對する夢を何時までも捨てきれないでゐる自分がいとしくもあつたのだ。工藤を考へるときだけは心のなかは千變萬化の光を放つた。》



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清岡卓行「ミロのヴィーナス」にも用例がある。



《なぜ、失われたものが両腕でなければならないのか? 僕はここで、彫刻におけるトルソの美学などに近づこうとしているのではない。腕というもの、もっと切りつめて言えば、手というものの、人間存在における象徴的な意味について、注目しておきたいのである。それが最も深く、最も根源的に暗示しているものはなんだろうか? ここには、実体と象徴のある程度の合致がもちろんあるわけであるが、それは、世界との、他人との、あるいは自己との、千変万化する交渉の手段なのである。言いかえるなら、そうした関係を媒介するもの、あるいは、その原則的な方式そのものなのである。》



この高名な評論は、ミロのヴィーナスには両腕が不要だと言いたいだけの単なる美術評論ではない。この評論の面目は、この評論が『手の変幻』と題する評論集に収められていることからも類推できるように、「そもそも手とは何か」という根源的な問いを突きつけるところを措いてほかにはあるまい。肉感、機能、習慣から切りはなして象徴あるいは儀礼的な位相にまで高められ得る「手」について思いを馳せることは、まことに魅力的な夢想である。そして、そこで改めて、その触媒となる不在の手、手の非在が際だたせるところに、この評論自体の千変万化もあるだろう。



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夢野久作の「鼻」、清岡卓行の「手」、そして林芙美子の「心」。
ロボットならずとも、キャメラに頼らずとも、人間の身心は文学者の鋭い観察に捉えられるかぎり、やはり千変万化なのである。