ダイタンフテキ



 大 胆 不 敵 






度胸が据わっていて、動じたり恐れたりしないこと。
「豪快奔放」「剛毅果断」「広壮豪宕」「剛胆無比」「大胆千万」「大胆奔放」ともいう。



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近松門左衛門国性爺合戦』に用例がある。



《「御聞き及びも候はん某は古への鄭芝龍と申す者、只今の妻や子は日本の者にて候へども、旧恩を報ぜずんば忠臣の道立つべからず。某こそ年よつたれこの忰兵事軍術を嗜み、御覧のごとく骨ぶとに生れ付き大膽不敵の強力者。今一度大明の恩代にひる返し、冥途にまします先帝の宸襟をやすんじ奉らん。恩心やすく思し召せ」》



松浦の住吉に詣でて浜伝いに帰るとき、一官夫婦は、栴檀皇女と不思議な瑞夢のように出会う。



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萩原朔太郎「僕等の親分」(『蝶を夢む』)に、次の用例がある。



《僕等の親分は自由の人で
 青空を行く鷹のやうだ。
 もとより大膽不敵な奴で
 計畫し、遂行し、豫言し、思考し、創見する。
 かれは生活を創造する。
 親分!》



「親分」とは、私たちの理想である。理想の生き方をするには、肝が据わっていることが絶対条件。



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織田作之助「聴雨」にも用例がある。



《彼の棋風は、「坂田将棋」といふ名称を生んだくらゐの個性の強い、横紙破りのものであつた。それを、ひとびとは遂に見ることが出来なくなつた。かつて大崎八段と対局した時、いきなり角頭の歩を突くといふ奇想天外の手を指したことがある。果し合ひの最中に草鞋の紐を結ぶやうな手である。負けるを承知にしても、なんと不逞々々しい男かと呆れるくらゐの、大胆不敵な乱暴さであつた。棋界は殆んど驚倒した。》



将棋を指す人ならば知っているが、初手の角頭歩突きは、アマチュアでもやる人がいない筋悪の手である。それをオダサクは「草鞋」の比喩と「大胆不敵」という四字熟語で表現した。ちなみに「彼」とは阪田三吉のことであり、大崎八段とは大崎熊雄のことである。



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原田マハ「エトワール L'étoile」にも用例がある。



《彼――エドガー・ドガという画家の名を、メアリーはありありと思い出した。七年まえ、サロンでみつけたあの画家だった。周囲との不協和音をものともせず、たったいま落馬してしまった騎手の場面を観衆に突き付けた、ぞくぞくするほど大胆不敵な画家。あのとき、すでに感じ取っていたのだ。変容の空へと軽やかに羽ばたきを始めているこの街に、サロンという古風なシステムはなんと似つかわしくないことか。それに反して変わりつつあるパリの鼓動と同じリズムで脈打つ心臓のような、生々しくて風変わりな一枚の絵。ドガの絵は、彼女の胸の奥底にずっとしまわれていたのだ。》



「たったいま」には、傍点。



「大胆不敵」な人は、不協和音を鳴らすが、強烈な衝撃を与える。ドガという画家もまた、「大胆不敵」という四字熟語で形容するのがよいようだ。



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「小心翼翼」たる身、たまには「親分」よろしく「大胆不敵」に憧れてみるのものの、そうはいってもやはり、怪我をするのが怖くて、躊躇してしまうのはが凡人の性というものか。