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 独 学 孤 陋






師匠に就いたり学友に交わったりせず一人で学ぶと、見聞が狭く独りよがりになるということ。
「独学固陋」とも書く。「孤陋寡聞」とも言う。



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戴聖編『礼記』〈学記〉が出典である。



獨學而無友、則孤陋而寡聞。》



 (独学にして友無ければ、則ち孤陋にして寡聞なり。)



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五井蘭洲『非物篇』に、次の用例がある。



《非に曰く、嗚呼徂徠門を杜して書を読み、世と相渉らず、時に詰り問ふ者有るや、輒ち曰く、「習ひ異にし対を置かず。是れ我が家法」と。是を以て栄邁余り有りと雖も、亦た終に独学固陋に免れず。》



懐徳堂の五井蘭洲は、名は純禎、字は子祥、藤九郎と通称し、蘭洲あるいは冽庵と号した。



引用文は荻生徂徠の『論語徴』を批判したくだりである。昌平黌が幕臣に閉じた学校であったのと対照的に、懐徳堂は商人にも開かれた学校であった。懐徳堂には常に世の中と交渉し、学習者の質問にも積極的に応じようとする姿勢があった。



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永井荷風「正宗谷崎両氏の批評に答う」に、次の用例がある。



《わたくしは最初雇われた時から、無事に三個年勤められれば満足だと思っていた。三年たてば三田の学窓からも一人や二人秀才の現れないはずはない。とにかくそれまでの間に、森先生に御迷惑をかけるような失態を演じ出さないようにと思ってわたくしは毎週一、二回仏蘭西人某氏の家へ往って新着の新聞を読み、つとめて新しい風聞に接するようにしていた。三年の歳月は早くも過ぎ、いつか五年六年目となった。もともとわたくしは学ぶに常師というものがなかったから、独学固陋の譏りは免かれない。それにまた三田の出身者ではなく、外から飛入りの先生だから、そう長く腰を据えるのはよくないという考もあった。わたくしの父は、生前文部省の役人で一時帝国大学にも関係があったので、わたくしは少年の頃から学閥の忌むべき事や、学派の軋轢の恐るべき事などを小耳に聞いて知っていた。しかしこれは勿論わたくしが三田を去った直接の原因ではない。わたくしの友人等は「あの男は生活にこまらないからいつでも勝手気儘な事をしているのだ」といってその時も皆これを笑った。谷崎君の批評にも正宗君の論文にもわたくしが衣食に追われていない事が言われている。これについてわたくしは何も言う事はない。唯一言したいのは、もしわたくしが父兄を養わなければならぬような境遇にあったなら、他分小説の如き遊戯の文字を 弄ばなかったという事である。わたくしは夙くから文学は糊口の道でもなければ、また栄達の道でもないと思っていた。これは『小説作法』の中にもかいて置いた。》



思わず長い引用となったのは、荷風が「独学固陋」であることをある意味、開き直っているのが少し面白いと感じたからである。



荷風散人はさも「独学はなるほど孤陋だが、学閥にまみれているのも、生活に追われているのもまた固陋でないか」とでも言いたげな口ぶりである。



文学史通には言わずもがなの註釈だが、「森先生」とは森鷗外のこと。森鷗外の紹介で荷風は三田、すなわち慶應義塾大学の教壇に立つことができた。



「正宗谷崎両氏」とは、正宗白鳥谷崎潤一郎のことである。
何に対して答えたかというと、正宗白鳥永井荷風論」と谷崎潤一郎永井荷風氏の近業について―『つゆのあとさき』を読む―」である。



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岡本かの子上田秋成の晩年」にも用例がある。



《彼はこの時までに俳諧では高井凡圭、儒学は五井蘭州、その他都賀庭鐘、建部綾足、といふやうな学者で物語本の作者である人々についても、すこしは教へを受けたが、大たいはその造詣を自分で培つた。それも強ひて精励努力したといふわけでは無い。幼年から数奇な運命は彼の本来の性質の真情を求めるこころを曲げゆがめ、神秘的な美欲や愛欲や智識欲の追躡といふやうな方面へ、彼の強鞣な精神力を追ひ込み、その推進力によつて知らぬ間に、彼の和漢の学に対する蘊蓄は深められてゐた。彼の造詣の深さを証拠立てる事は彼が三十五歳雨月物語を成すすこし前、賀茂真淵直系の国学者で幕府旗本の士である加藤宇万伎に贄を執つたが、この師は彼の一生のうちで、一番敬崇を運び、この師の歿するまで十一年間彼は、この師に親しみを続けて来たほどである。この宇万伎は、彼が入門するとたちまち弟子よりもむしろ友人、あるひは客員の待遇をもつて、彼に臨み、死ぬときは、彼を尋常一様の国学者でないとして学問上の後事をさへ彼に托した。そして、この間に彼の名もそろそろ世間に聞え始めてゐた。しかし、それほどの師にすら、秋成の現実の対照に向つては、いつも絶対の感情の流露を許さぬ習癖が、うそ寒い疑心をもち師のいひし事にもしられぬ事どもあつて、と結局は自力に帰り、独窓のもとでこそ却て研究は徹底すると独学孤陋の徳を讃美して居る。》



これまた引用が長くなったのは、先に出てきた五井蘭洲が再び出てくることを示そうと狙ったことに加え、荷風散人同様、「独学孤陋」に居直っている例と思ったからである。



ちなみに「上田秋成の晩年」の書き出しは、こうであった。「文化三年の春、全く孤独になつた七十三の翁、上田秋成は京都南禅寺内の元の庵居の跡に間に合せの小庵を作つて、老残の身を投げ込んだ。/孤独と云つても、このくらゐ徹底した孤独はなかつた。」



かの子の関心は「徹底した孤独」、すなわち「独学孤陋」に向いていたと評して差し支えないだろう。