センペンバンカ




 千 変 万 化






種々さまざまに変化すること。めまぐるしく変転し、極まりがないさま。
単に「変化」といい、「千変万幻」「動揺流転」「変幻自在」ともいう。



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列御寇列子』〈湯問〉が出典である。



《穆王驚視之、趣歩俯仰、信人也。巧夫顉其頤、則歌合律。捧其手、則舞應節。千變萬化、惟意所適。王以為實人也、與盛姫内御並觀之。》



歌って踊れる人形、すなわちロボットのお話である。まるで本物の人間のように巧みに動くといい、その様子を表現して「千變萬化」という。



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兼明親王「莵裘賦」(『本朝文粋』)に用例がある。



《……萬物云生、或消或息。風雨陶冶、寒暑廻薄。千變萬化、有何常則。……》



 (万物云に生り、或は消え或は息る。風雨陶冶し、寒暑廻薄す。千変万化、何の常則か有らむ。)



「鵩鳥賦」にも「安有常則、千変万化兮」とあることから、「常則」すなわち決まった法則はないというのが「千変万化」の文脈と言えそうだ。



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寺田寅彦「映画雑感IV」に用例がある。



《しかしなんといってもこの映画でいちばんおもしろいのは、いろいろな幻影のレヴューである。観客はカメラとなって自由自在に空中を飛行しながら生きた美しい人間で作られたそうして千変万化する万華鏡模様を高空から見おろしたり、あるいは黒びろうどに白銀で縫い箔したような生きたギリシア人形模様を壁面にながめたりする。それが実に呼吸をつく間もない短時間に交互錯綜してスクリーンの上に現滅するのである。》



「この映画」とはレイ・エンライト監督の「泥酔夢 Dames」(米 1934年)を指しているのだが、空中遊泳は映画によって初めて体感できる新感覚であった。寺田寅彦はじめ当時の観客が、俯瞰のアングルと映画特有の速度や技法が相まっての「千変万化」に幻惑され、翻弄されたことは想像できないでもない。



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夢野久作「鼻の表現」に用例がある。



《大袈裟なところでは眉が逆立ちをしたり、眼が宙釣りになったり、口が反りくり返ったりします。デリケートなところでは唇がふるえたり、眼尻に漣が流れたり、眉がそっと近寄ったりします。その他頬がふくれたり、顳がビクビクしたり、歯がガッシガッシしたりする。しまいには赤い舌までが飛び出して、上唇や下唇をなめずりまわし、又はペロリと長く垂れ下ったりします。
 その上に足の踏み方、手の動かし方、肩のゆすぶり方、腰のひねり方、又はお尻の振り方なぞいう、顔面表現の動的背景ともいうべき大道具までが参加して、縦横無尽千変万化、殆ど無限ともいうべき各種の表現を行って着々と成果を挙げているのであります。
 然るにその中央のお眼通り正座に控えた鼻ばかりはいつも無でいるようであります。只のっそりぼんやりとかしこまったり、胡坐をかいたり、寝ころんだりしております。精々奮発したところで暑い時に汗をかいたり、寒い時に赤くなったりする位の静的表現しか出来ない。たまに動的表現が出来たかと思うと、それは美味しいにおいを嗅ぎ付けてヒコ付いたのであったなぞいう次第であります。どちらにしても恐ろしく低級な、殆ど無いと云ってもいい位な表現力しか持たぬものとして、人類の大部分に諦められているようであります。》



表情豊かな他の器官に比べて、鼻が「不変不動」であることに着目するというユニークな一篇である。〈「鼻の表現能力は、その無表現のところに在る……/無から有を生ずるところに在る……/不変不動のまま千変万化するところにある……/造化の妙理、自然の大作用はここにも窺う事が出来る……」〉という箇所もある。いかにも夢野久作というナンセンスだ。



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林芙美子「秋果」にも用例はある。



《一ヶ月ぐらひして米倉はおめかしをしてもんをたづねて來た。もんの生れ故郷をきくでもなければ、何のためにこの蘇州まで來たのかときくでもなく、米倉は結婚話を持ち出した。もんは心のうちに、工藤以外にはもうすべての男に對して何の興味もない自分の年齡を知つてゐた。よその女のひとよりも早く女の終りが來たのかと、もんは淋しいと思ふ時があつたけれど、工藤に對する夢を何時までも捨てきれないでゐる自分がいとしくもあつたのだ。工藤を考へるときだけは心のなかは千變萬化の光を放つた。》



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清岡卓行「ミロのヴィーナス」にも用例がある。



《なぜ、失われたものが両腕でなければならないのか? 僕はここで、彫刻におけるトルソの美学などに近づこうとしているのではない。腕というもの、もっと切りつめて言えば、手というものの、人間存在における象徴的な意味について、注目しておきたいのである。それが最も深く、最も根源的に暗示しているものはなんだろうか? ここには、実体と象徴のある程度の合致がもちろんあるわけであるが、それは、世界との、他人との、あるいは自己との、千変万化する交渉の手段なのである。言いかえるなら、そうした関係を媒介するもの、あるいは、その原則的な方式そのものなのである。》



この高名な評論は、ミロのヴィーナスには両腕が不要だと言いたいだけの単なる美術評論ではない。この評論の面目は、この評論が『手の変幻』と題する評論集に収められていることからも類推できるように、「そもそも手とは何か」という根源的な問いを突きつけるところを措いてほかにはあるまい。肉感、機能、習慣から切りはなして象徴あるいは儀礼的な位相にまで高められ得る「手」について思いを馳せることは、まことに魅力的な夢想である。そして、そこで改めて、その触媒となる不在の手、手の非在が際だたせるところに、この評論自体の千変万化もあるだろう。



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夢野久作の「鼻」、清岡卓行の「手」、そして林芙美子の「心」。
ロボットならずとも、キャメラに頼らずとも、人間の身心は文学者の鋭い観察に捉えられるかぎり、やはり千変万化なのである。