モウカヨウソ




 孟 軻 養 素






性善説を唱えた孟子の言うように、先人の徳に学びながら、人のもって生まれたままの淑性を手厚く育てていくこと。
「孟軻敦素」ともいう。類義語としては「揚雄草玄」がある。



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李瀚編『蒙求』徐子光補注本の標題に用例がある。



 「孟軻養素 揚雄草玄」



孟子は、唐虞三代の徳を紹述し『詩』や『書』を編纂して、自らも「浩然之氣」を養い善性を全うした。揚雄もまた『太玄経』を執筆し、世の動きに惑わされることがなかった。



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周興嗣千字文』には「孟軻敦素」の用例がある。



 「孟軻敦素 史魚秉直」
  (孟軻は素を敦くし、史魚は直を秉る。)



孟子は生来の素質を手厚く育てることを唱え、史魚は正直でまっすぐな生き方を貫いたという意味である。



なお脇道に逸れるが、ついでなので「史魚秉直」についても一言しておく。
史魚は、史鰌ともいう。「死んで諌める」ということを初めて行った衛の大夫であり、「史魚屍諫」「史魚至忠」「史鰌屍諌」「史魚黜殯」という四字熟語で知られる。彼はいまわの際に息子にこう遺言した。「王を正しく導けなかった自分の亡骸に葬式・埋葬の類は一切無用、ただ窓の下に放置しておいてくれ」と。弔問に来た王・霊公がその無惨な遺体を見て、大いに反省したことはいうまでもない。厚く葬儀を執り行ったのはもちろん、生前の史魚の諌めに従った。矢のように真っ直ぐな史魚の生き方を「直なる哉」と褒めた孔子が、「死んだ後に王を諌めたのは史魚だけである」と絶賛したというのも首肯できる*1



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森鷗外伊沢蘭軒」によく目を凝らすと、次のような引用がある。



《巻首の四大字は東久世通禧公、次は養素軒柳原大納言前光公、愛古堂磐渓、秋月公、大給亀崖公(即松平縫殿頭の事也)、跋は片桐玄理と申せし家塾に居りし御存之者、今文部の督学寮に出仕いたし居申候。》



柳原前光とは大正天皇の生母・愛子の兄、歌人柳原白蓮の父である。書家としても知られる。「養素軒」とあるが、「養素」とはつまり、孟子の「養素」、すなわち「孟軻養素」から来ていることが既に明らかであろう。



管見のかぎり、今日この四字熟語を掲載する通俗の辞典は紙媒体・電網ともに皆無である。現時では用例も極めて少なく、ここにこの四字熟語を登記し、広く世に紹介せし所以である。





*1:「史魚屍諌」の項 http://d.hatena.ne.jp/Cixous/20100222も参照のこと。

チュウソウヤム




 昼 想 夜 夢






目が覚めている昼に思ったことが、夜に眠ったときに夢となって現れること。



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列御寇列子』〈周穆王〉が出典である。
《子列子曰、神遇夢爲、形接爲事、故晝想夜夢。神形所遇、故神凝者、想夢自消。》
(子列子曰く、神遇ふを夢と為し、形接はるを事と為す、故に昼想ひ夜夢みるは、神形の遇ふ所なり。故に神凝まる者は想夢自ら消ゆ。)



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王符『潜夫論』〈夢列〉の例も、最も早いものの一つである。
有所夜夢其事。》
(昼思ふ所あれば、夜其の事を夢む。)



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芥川龍之介素戔嗚尊」は、表層を見ているかぎりにおいては用例に行き当たることもないが、少し掘り下げてみると、深層に潜在する「昼想夜夢」という四字熟語を炙り出すことのできうるテクストである。冒頭は次のように始まる。



高天原の国も春になった。
 今は四方の山々を見渡しても、雪の残っている峰は一つもなかった。牛馬の遊んでいる草原は一面に仄かな緑をなすって、その裾を流れて行く天の安河の水の光も、いつか何となく人懐しい暖みを湛えているようであった。ましてその河下にある部落には、もう燕も帰って来れば、女たちが瓶を頭に載せて、水を汲みに行く噴き井の椿も、とうに点々と白い花を濡れ石の上に落していた。----》



途中経過や委細は、ここでは省略する。この後、亡命者・素戔嗚尊が、高天原を夢見る場面がある。



《しかしある夜夢の中に、彼は山上の岩むらに立って、再び高天原の国を眺めやった。高天原の国には日が当って、天の安河の大きな水が焼太刀のごとく光っていた。彼は勁い風に吹かれながら、眼の下の景色を見つめていると、急に云いようのない寂しさが、胸一ぱいに漲って来た、そうして思わず、声を立てて泣いた。その声にふと眼がさめた時、涙は実際彼の煩に、冷たい痕を止めていた。彼はそれから身を起して、かすかな榾明りに照らされた、洞穴の中を見廻した。彼と同じ桃花の寝床には、酒ののする大気都姫が、安らかな寝息を立てていた。これは勿論彼にとって、珍しい事でも何でもなかった。が、その姿に眼をやると、彼女の顔は不思議にも、眉目の形こそ変らないが、垂死の老婆と同じ事であった。》



昼の明るく平和なときに見わたす故郷の風景と、夜の暗いときに異郷で見る夢の中の風景は同じ高天原であるにもかかわらず全く違った相貌をあらわす。このテクストの構成上のねらいの一部分は「昼想夜夢」という語に拠ったかどうかは定かでないものの、列子などと類似の発想に基づいている可能性もあるだろう。ただし、そこには書き手一流の皮肉として「昼想」と「夜夢」の間のズレが仕掛けられていることを見落としてはいけない。



そういえば、このテクストに仕掛けられる問答には次のようなものがあった。



《「しかし人が掬わなくっても、砂金は始から砂金でしょう。」
「さあ、砂金だとわかるのは、人に掬われてからの上じゃありませんか。」
「すると人が、ただの砂を砂金だと思って掬ったら----」
「やはりただの砂でも砂金になるでしょう。」》



あるいは、次のような問答も止目に値する。
《「高天原の国は、好い所だと申すではございませんか。」
 この言葉を聞くと共に、一時静まっていた心頭の怒火が、また彼の眼の中に燃えあがった。
 「高天原の国か。高天原の国は、鼠が猪よりも強い所だ。」
 大気都姫は微笑した。その拍子に美しい歯が、鮮に火の光に映って見えた。
 「ここは何と云う所だ?」
  彼は強いて冷かに、こう話頭を転換した。が、彼女は微笑を含んで、彼の逞しい肩のあたりへじっと眼を注いだまま、何ともその問に答えなかった。彼は苛立たしい眉を動かして、もう一度同じ事を繰返した。大気都姫は始めて我に返ったように、滴るような媚を眼に浮べて、
 「ここでございますか。ここは----ここは猪が鼠より強い所でございます。」と答えた。》



つまり、このテクストは戦略的に砂/砂金といった真贋関係や、鼠/猪といった強弱関係の転倒・反転がさまざまに仕掛けられている。それがひいては高天原アナザーワールドの関係とも対応し、さらにはそれが〈昼想/夜夢〉というかたちでも現出するという仕掛けになっているということは意外に重要である。



ちょうどこの時機に、すなわち昼想と夜夢の間を執筆していたこの時機に、芥川という書き手は漢詩を作ることをやめたというふうに伝えられるが、今はそのような伝記的詮索はあえてしないでおく。ただ、テクストに潜在する四字熟語というテーマがなかなか興味深いということをコメントしておくに止める。


キジュンゴウイツ




 帰 順 合 一






対立を超えて一つに合わさること。「止揚」ともいう。



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石川淳「梗概に代へて」に用例がある。



《今日われわれの国では、何が善か、何が悪か、二つの観念がはつきり対立区分されてゐるやうに思はれます。もちろん、この果断決行の時に当つて、峻烈なる判断は至極必要なものなのですが、ただわれわれを何物かと対立させたと云ふだけでは、大文化創造の任務を負つてゐる民族の心がけとして、些か狭小に偏する惧れがないとも云へません。対立物を克服し、転換させ、われわれに於て帰順合一せしめ、単なる排斥ではなく高度の否定を、そこにわれわれ自身の肯定が確立されるやうな否定を持つのでなければ、文化の大を期することはできないでせう。》






戦時下に『白描』という小説があるのだが、その梗概に代えて上記を書かざるを得なかったのは、ロシア的なものを出すことに対する弁明が必要と自己検閲の意識が働いたからだろう。
独特な緊張の下に書かれただけあって、時局を意識した書き方になっており、いわゆる〈近代の超克〉の論法が採用される。ここでの「帰順合一」とは紛れもなくアウフヘーベンの意であるが、ニュアンスというものはあって西田幾多郎のいわゆる「主客合一」とは微細ながら差異があることも見逃してはならない。それはつまり「帰順」という言葉を選んだという一点に存する。「帰順」という語にはおのずと反逆や抵抗というレジスタンスの含意があって、そのことは上記の引用全体からも醸し出されているだろう。単純に白か黒かという二者択一の状況、つまり一つを択んだらもう一つは自動的に排除、粛清されてしまう異常な状況に異を唱えている。



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安岡正篤『一日一言』にも用例がある。



《よく天に順う時、我々にまず生ずるものは、敬虔な感恩な情と切り離すことのできない報謝の意思である。心が穏やかであれば、自分が死んでからではなく、生きている内から敬虔な心持に感謝と努力を誓うであろう。感恩の情と報謝の意思が自然に湧き起こってくるものに他ならない。
 この感情と意思とは、我々が地球上に人として生まれると先ず親に対して懐く感情が最初である。人として生まれ出でた子がその親に対しておのずから催す感恩報謝の情意を、実に「孝心」、あるいは単に「孝」と言う。孝こそは我々がその最も直接な造化に対する帰順合一であり、孝によって我々ははじめて真の意味における人となり、あらゆる道徳的行為はここより発する。真に孝は徳の本であり、教えのよって生ずるところである。》






安岡正篤という人の戦前の言説を石川淳とパラレルに並べて、冷徹きわまる眼で文脈も外さずフェアに読み比べてみると、両者の体質の違いがもっとはっきりして面白そうな予感もするが、この文章からでもその一端はうかがえるだろう。



親孝行の大切さを説く安岡正篤が「帰順合一」という四字熟語を使うとき、反抗期の子ども程度は想定されていようが、親を殺し、国家を転覆せんとするような過激な思想は想定されていないだろう。いや、というより、想定していないふりをして、それを封じ込めんとすることこそがこのような道徳の目的であり、効用であるといってもよい。



「最も直接な造化」というのは、もったいぶらずに言えば、父母の愛の営みにほかならない。ただ、分かる人には分かってしまうかもしれない。これは倉田百三の「愛は主観が客観と合一して生命原始の状態に帰らんとする要求である。」(『愛と認識との出発』)あるいは「男性の霊肉をひっさげてただちに女性の霊肉と合一するとき、そこに最も崇高なる宗教は成立するであろう」(同)という教養主義的な飛躍を、割に忠実になぞっているということを----。



今日では夫婦の愛も亀裂が走り、親子の情も混迷を深めているから、こうした説もすんなり受け入れられやすいのだろうが、「帰順」という語を選び「合一」という語を道徳の言説に持ち込んだ安岡自身のセンスはさすがに鋭いと言ってよいだろう。対立、亀裂、混迷が深刻であればあるほど、道徳というものは反比例的に崇高化されるのである。そして読者がそれに敏感か鈍感かで、革新か保守か、反体制派か体制派かが決まる。



ちなみに私自身は親孝行の必要性に真っ向から異を唱えるものではない。が、人間が完成していないせいか、単に臍曲がりなだけかは知らぬが、夫婦や親子の葛藤というものはそのまま受け止める主義である。現実から懸け離れ過ぎたあまりに美しい言説には動物的な勘もあって、警戒してしまうということもあるが、現実それ自体をそのまま肯定することを恐れるどころか、楽しめるからかもしれない。というわけで、右、左は別にして、文学者は本質的に止揚されることをウジウジと、しかしキッパリと峻拒する生き物なのなのかもしれぬと思う。


ギョウカイサンジャク




 堯 階 三 尺






質素な暮らし。
「堂高三尺」「土階三尺」「土階三等」「土階茅茨」「采椽不斲」「茅屋采椽」「茅茨不翦」「藜杖韋帯」「茅茨剪らず采椽削らず」ともいう。対義語に「金殿玉楼」「峻宇雕牆」がある。



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曾先之十八史略』に、中国古代の伝説的な聖天子である堯の記事がある。



《都平陽。茅茨不翦、土階三等。》
(平陽に都す。茅茨剪らず。土階三等のみ。)



堯にまつわる四字熟語は多く、ここでもすでに「鼓腹撃壌」*1を取り上げたことがあるが、「堯舜有徳」「尭鼓舜木」「尭風舜雨」「尭年舜日」「跖狗吠尭」「尚書堯典」といった四字熟語もあることをまず銘記しておこう。



「堯階三尺」は、堯が平陽というところ都を定めたものの、宮殿は茅葺きで、しかも端を切り揃えることもせず、登る階段はわずか三段で、しかも土の階段であったという「土階三等」に由来する四字熟語である。為政者は民を酷使して御殿を建ててはいけないという戒めとして今も重みを持ち続けてほしい故事と言えよう。



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汪遵「長城」という七言絶句の中に最初の例が見える。



《 焉知万里連雲勢 (焉んぞ知らん万里連雲の勢)
  不及堯階三尺 (及ばず堯階三尺の高きに) 》



万里の長城を築いた始皇帝の手になる秦が滅亡したとき、思い出されたのは遠い昔にあったとされる堯の宮殿の質朴であった。始皇帝の壮大な長城は、堯のわずか三尺の土階に敵わない。



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福沢諭吉「教育の目的」に用例がある。
《安はすなわち安なりといえども、その安は身外の事物、我に向って愉快を呈するに非ず。外の事物の性質にかかわらずして、我が心身にこれを愉快なりと思うものにすぎず。すなわち万民安堵、腹を鼓して足るを知ることなれども、その足るを知るとは、他なし、足らざるを知らざりしのみ。たとえば往古支那にて、天子の宮殿も、茆茨剪らず土階三等、もって安しというといえども、その宮殿は真実安楽なる皇居に非ず。かりに帝堯をして今日にあらしめなば、いかに素朴節倹なりといえども、段階に木石を用い、屋もまた瓦をもって葺くことならん。》



たしかに今日に堯があれば、土階ということはなく、それなりのところに住むだろう。その精神を汲まなければならぬのであって、字義通りに揚げ足をとるのは、たしかによろしくない。『韓非子』には「茅茨不翦、采椽不斲、糲粢之食、藜藿之羹、冬日麑裘、夏日葛衣、雖監門之服養、不虧於此矣。」とあるが、今日これに忠実たれと言うのは時代錯誤も甚だしいということになる。しかし、その真逆ばかり見せられると、政治不信にもなるというものである。


コウセキボクトツ




 孔 席 墨 突






休む暇がないほど忙しく奔走するさま。
世のため人のために働き、自分のための時間がないさま。
「孔席不暖」「孔突墨席」「墨突不黔」「東奔西走」「孔席暖まらず墨突黔まず」「席暖まるに暇あらず」などとも言う。



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班固「答賓戯」(『文選』)が出典である。
《是以聖哲之治、棲棲遑遑、孔席不㬉墨突不黔。》
孔子墨子は諸国遊説のため、座席の敷物が暖まる間もなく次の場所へ移動し、自宅では竈を使わないため炊煙で煙突に煤を付けて黒くする暇すらなかったという故事に由来する言葉である。
ただし、『文子』〈自然〉では孔子墨子の順序が逆になっている。「孔突墨席」の方が正当か。



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夏目漱石「人生」の冒頭段落を引用する。
《空を劃して居る之を物といひ、時に沿うて起る之を事といふ、事物を離れて心なく、心を離れて事物なし、故に事物の変遷推移を名づけて人生といふ、猶麕身牛尾馬蹄のものを捉へて麟といふが如し、かく定義を下せば、頗る六つかしけれど、是を平仮名にて翻訳すれば、先づ地震、雷、火事、爺の怖きを悟り、砂糖と塩の区別を知り、恋の重荷義理の柵抔いふ意味を合点し、順逆の二境を踏み、禍福の二門をくゞるの謂に過ぎず、但其謂に過ぎずと観ずれば、遭逢百端千差万別、十人に十人の生活あり、百人に百人の生活あり、千百万人亦各千百万人の生涯を有す、故に無事なるものは午砲を聞きて昼飯を食ひ、忙しきものは孔席暖かならず、墨突黔せずとも云ひ、変化の多きは塞翁の馬に辶をかけたるが如く、不平なるは放たれて沢畔に吟じ、壮烈なるは匕首を懐にして不測の秦に入り、頑固なるは首陽山の薇に余命を繋ぎ、世を茶にしたるは竹林に髯を拈り、図太きは南禅寺の山門に昼寝して王法を懼れず、一々数へ来れば日も亦足らず、中々錯雑なものなり、加之個人の一行一為、各其由る所を異にし、其及ぼす所を同じうせず、人を殺すは一なれども、毒を盛るは刃を加ふると等しからず、故意なるは不慮の出来事と云ふを得ず、時には間接ともなり、或は又直接ともなる、之を分類するだに相応の手数はかゝるべし、況して国に言語の相違あり、人に上下の区別ありて、同一の事物も種々の記号を有して、吾人の面目を燎爛せんとするこそ益面倒なれ、比較するだに畏けれど、万乗には之を崩御といひ、匹夫には之を「クタバル」といひ、鳥には落ちるといひ、魚には上がるといひて、而も死は即ち一なるが如し、若し人生をとつて銖分縷析するを得ば、天上の星と磯の真砂の数も容易に計算し得べし》
「人生」は漱石が五高の教師であったとき『龍南会雑誌』に寄稿したものであるが、漢籍から得た教養を衒学的にひけらかすと同時に独特なユーモアがあって、漱石らしい文章となっているとひとまず言えるだろう。その中に「孔席」云々もあるということ。



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牧逸馬『浴槽の花嫁』の例も参考になる。
《George Joseph Smith はベスナル・グリインの保険会社員の家に生まれた。一八九六年に軍隊から出て来るとすぐ女狩りを始めて、その「浴槽の花嫁」なる新手は、十八年後に刑死するまで継続された。頻繁に名を変えているので、除隊になってからの足取りを拾うことははなはだ困難とされている。一八九七年に女のことで投獄されたジョウジ・ベエカアなる男が、まずスミスの変名のはじまりで、その後、ライセスタアでいちじ菓子屋をしていたこともある。つぎに知れているのはジョウジ・オリヴァ・ラヴ――George Olive Love――という三文小説の主人公みたいな名でカロライン・ビアトリス・ソウンヒルという十八歳の女と結婚していることだ。その時の結婚登録に、スミスは父の職業を探偵と書いている。皮肉のつもりであろう。このカロライン・ソウンヒルのその後の消息も不明だから、やはり「浴槽の花嫁」になったのだろうということになっている。が、スミスの真個の活動は、一九〇三年に開始されて、引き続いて六年間、彼は東奔西走席の暖まる暇もなく女狩りに従事して多忙を極めた。ちょっと被害者の名を挙げただけでも、メイ・ベリスフォウド、マアガレット・グロサップ、ルウス・ホフィらだ。この人鬼にも、ただ一人、財産が眼あてでなしに一生涯愛し抜いた恋人があった。それが前からたびたび出ている情婦のエデス・メエベル・ペグラアである。》



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窪田義行孔席温まらず墨突黔まず」(『義七郎武藏國日記』)も引く。



羽生善治王座は表題通り東奔西走の日々だが、王座に限っては座り放し。
 すっかり温まった椅子だが、今度こそ所有者を変えるだろうか。》
http://shimousadainagon.moe-nifty.com/nitenichiryu/2005/09/post_2f42.html



用例があまりにも少ない語であるから、ここでは文学作品の用例中心にするという方針にあえて反して、ブログなるものからも一つ引用してみた。たいそう珍しいことではあるが、ご寛恕ねがう。
窪田義行六段は将棋の棋士
この用例はユーモアが効いていて、引用に値すると判断した。
これは2005年の記事だが、その後の羽生善治王座は、王座戦日本経済新聞社)において王座位を18連覇し、同一タイトル連覇記録において史上一位という驚くべき不滅の金字塔を樹立している*1という実績、そして常に勝ち続けるので対局数が必然的に多くなり、しかも人気もあるので将棋の普及活動や講演などで引っ張りだこ、日本中を飛び回る殺人的なスケジュールをこなしているという背景を知っていると、将棋ファン以外の方にもきっとこの用例の妙味がお分かりいただけることだろう。





*1:なおこの記録は現在も続いており、さらに更新される可能性もある。

テンカムテキ




 天 下 無 敵






この世にかなうものがいないほど強いこと、優れていること。



「海内無双」「国士無双」「天下一品」「天下第一」「天下無双」「天下無比」「天下無類」「当代随一」「当代第一」「当代無双」「斗南一人」など、類義語多数。



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荘子荘子』〈説剣〉の故事に由来する。
《王曰「子之剣、何能禁制。」曰「臣之剣、十歩一人、千里不留行。」王大悦之、曰「天下無敵矣。」》
(王曰く「子の剣、何をか能く禁制す」と。曰く「臣の剣、十歩にして一人、千里にしても留まらず行く」と。王大いに之を悦びて、曰く「天下無敵なり」と。)
剣が好きな趙の恵文王は人を集めては撃剣の大会を行い、多くの人が死んでいった。荘子が王を諌めることになったが、王は剣の達人としか会わないという。そこで荘子は「自分は十歩歩くごとに一人を殺し、千里進んでもまだ行ける」とうそぶいて、王に「天下無敵」と言わせてから天下無敵の剣を説く。人殺しの剣と、天下を治める剣の本質的な区別を教えたというわけである。



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菊池寛藤十郎の恋」に用例がある。
《三ヶ津の総芸頭とまで、讃えられた坂田藤十郎は傾城買の上手として、やつしの名人としては天下無敵の名を擅にして居た。が、去年霜月、半左衛門の顔見世狂言に、東から上った少長中村七三郎は、江戸歌舞伎の統領として、藤十郎と同じくやつしの名人であった。二人は同じやつしの名人として、江戸と京との歌舞伎の為にも、烈しく相争わねばならぬ宿縁を、持っているのであった。》
天下無敵と言いながらライバルが出現してしまう矛盾はさておき、そうした雲の上の戦いというもの劇には欠かせないお膳立てと言える。



ちなみに主人公である藤十郎は「もっと深いもっと本質的なある物」に悩んでいるのだが、にもかかわらず語り手は「一番」「天下無敵」「王座」「芝居国の国王」「芝居国の長者」「歌舞伎の長者」「三国一の名人」といった最上級を表す下劣な語彙で取り囲もうとしていることも見逃してはなるまい。



語り手は、物語の中の“世評”に寄り添う。その世評は、藤十郎の「もっと深いもっと本質的なある物」を、誰が一番かという勝ち負けの構図などの分かりやすい物語に変換する装置となっている。いや、というより、如上の語彙が物語の中にそのような“世評”を創り出す、と言った方が正確かもしれない。そこに菊池寛ストーリーテラーとしての資質が遺憾なく発揮されていると私は見るが、ともあれ、そういったことも含めて、「天下無敵」という四字熟語が「藤十郎の恋」というテクストを読み解く際の重要なキーワードの一つと言えるのではないかと考えているところである。



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織田作之助「聴雨」の冒頭も見る。



《午後から少し風が出て来た。床の間の掛軸がコツンコツンと鳴る。襟首が急に寒い。雨戸を閉めに立つと、池の面がやや鳥肌立つて、冬の雨であつた。火鉢に火をいれさせて、左の手をその上にかざし、右の方は懐手のまま、すこし反り身になつてゐると、
「火鉢にあたるやうな暢気な対局やおまへん。」といふ詞をふと私は想ひ出し、にはかに坂田三吉のことがなつかしくなつて来た。
 昭和十二年の二月から三月に掛けて、読売新聞社の主催で、坂田対木村・花田の二つの対局が行はれた。木村・花田は名実ともに当代の花形棋士、当時どちらも八段であつた。坂田は公認段位は七段ではあつたけれど、名人と自称してゐた。
 全盛時代は名人関根金次郎をも指し負かすくらゐの実力もあり、成績も挙げてゐたのである故、まづ如何やうに天下無敵を豪語しても構はないやうなものの、けれど現に将棋家元の大橋宗家から名人位を授けられてゐる関根といふ歴とした名人がありながら、もうひとり横合ひから名人を名乗る者が出るといふのは、まことに不都合な話である。おまけに当の坂田に某新聞社といふ背景があつてみれば、ますます問題は簡単で済まない。当然坂田の名人自称問題は紛糾をきはめて、その挙句坂田は東京方棋士と絶縁し、やがて関東、関西を問はず、一切の対局から遠ざかつてしまつた。人にも会はうとしなかつた。》



木村は木村義雄。後の十四世名人である。花田は花田長太郎。後の贈九段である。
さてオダサクは、大阪ということで坂田三吉を取り上げたと思われがちだが、それは違う。それももちろん大きな要因だが、劇の好きな文学者としての天分が働いたと見る。「二人の名人」問題は棋史に残る事実でもあるが、そうした雲の上の決戦に面白さを感受しフォーカスしてしまうオダサクの文章は、さすがに劇を研究していた人の手並み、と思わせる。



菊池寛織田作之助も愛棋家の劇作家だが、将棋と劇には通じるものがあると両方好きな人間は私見を挿みたくなるが、止める。



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日向蓬「モンスター」にも用例がある。



《「そういう問題じゃねーだろ。お前さ、妖怪なんかにシンパシー感じてないで、息子の心配してやれよ」
 「してるってば。してるけどさ、康介の恐怖感のツボが理解できない。だって、あいつ、『ゲゲゲの鬼太郎』大好きなんだよ。てっきり我が息子は、天下無敵の怖いもの知らずだと思ってたんだけどな」
  すると、兄が急にニヤニヤして言った。
 「そう言うけど、弥々子、お前だって」
 「何よ?」
 「遊園地の『ミラーハウス』、覚えてるか? 張り切って入ったくせに、途中で怖くなってベソかいてさ」」》



こちらはまた違う水準での争い。



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結局、多くの場合、「天下無敵」と言いつつ、敵は意外といるものなのかもしれない。



浅田次郎『きんぴか』の用例を引く。
《男は自分を天下無敵の事業家だと思いこんでいたのである。》



皆、「天下無敵」と思いこんでいるだけで、実際はいろいろなライバルが出現するものなのである。


テットウテツビ




 徹 頭 徹 尾






最初から最後まで同じ方針を貫き通すさま。100%
「一伍一什」「一部始終」「終始一貫」「首尾一貫」ともいう。



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『河南程氏遺書』第十八の以下の部分が出典である。
《「不誠無物、誠者物之終始」、猶俗説徹頭徹尾不誠、更有甚物也。》



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夏目漱石『坊つちやん』の用例は以前に引いたが*1、再掲する。



《野だは例のへらへら調で「実に今回のバッタ事件及び咄喊事件は吾々心ある職員をして、ひそかに吾校将来の前途に危惧の念を抱かしむるに足る珍事でありまして、吾々職員たるものはこの際奮って自ら省りみて、全校の風紀を振粛しなければなりません。それでただ今校長及び教頭のお述べになったお説は、実に肯綮に中った剴切なお考えで私は徹頭徹尾賛成致します。どうかなるべく寛大のご処分を仰ぎたいと思います」と云った。野だの云う事は言語はあるが意味がない、漢語をのべつに陳列するぎりで訳が分らない。分ったのは徹頭徹尾賛成致しますと云う言葉だけだ。
 おれは野だの云う意味は分らないけれども、何だか非常に腹が立ったから、腹案も出来ないうちに起ち上がってしまった。「私は徹頭徹尾反対です……」と云ったがあとが急に出て来ない。「……そんな頓珍漢な、処分は大嫌いです」とつけたら、職員が一同笑い出した。》



 ★



泉鏡花婦系図」にも用例がある。



《中途で談話に引入れられて鬱ぐくらい、同情もしたが、芸者なんか、ほんとうにお止しなさいよ、と夫人が云う。主税は、当初から酔わなきゃ話せないで陶然としていたが、さりながら夫人、日本広しといえども、私にお飯を炊てくれた婦は、お蔦の他ありません。母親の顔も知らないから、噫、と喟然として天井を仰いで歎ずるのを見て、誰が赤い顔をしてまで、貸家を聞いて上げました、と流眄にかけて、ツンとした時、失礼ながら、家で命は繋げません、貴女は御飯が炊けますまい。明日は炊くわ。米を煑るのだ、と笑って、それからそれへ花は咲いたのだったが、しかし、気の毒だ、可哀相に、と憐愍はしたけれども、徹頭徹尾、(芸者はおよしなさい。)……この後たとい酒井さんのお許可が出ても、私が不承知よ。で、さてもう、夜が更けたのである。
 出て来ない――夫人はどうしたろう。》



もちろん、次の「この後たとい酒井さんのお許可が出ても、私が不承知よ。」というところに「徹頭徹尾」の芯はきっぱりと見えるのだが、しかし「徹頭徹尾」と云いつつ、「気の毒だ」「可哀相に」というふうに「憐憫」するところに配慮言語行動としての肌理細かさがあり、そこが他の用例と違っている気がする。



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谷崎潤一郎細雪』にも用例がある。
《本家はもちろん、こいさんにも云ってくれては困る、僕はこの問題には徹頭徹尾局外者でありたい。》



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坂口安吾「肉体自体が思考する」にも用例がある。



《我々の倫理の歴史は、精神が肉体に就て考へてきたのだが、肉体自体もまた考へ、語りうること、さういふ立場がなければならぬことを、人々は忘れてゐた。知らなかつた。考へてみることもなかつたのだ。
 サルトルの「水いらず」が徹頭徹尾、たゞ肉体自体の思考のみを語らうとしてゐることは、一見、理知がないやうだが、実は理知以上に知的な、革命的な意味がある。
 私は今までサルトルは知らなかつたが、別個に、私自身、肉体自体の思考、精神の思考を離れて肉体自体が何を語るか、その言葉で小説を書かねばならぬ。人間を見直すことが必要だと考へてゐた。それは僕だけではないやうだ。洋の東西を問はず、大体人間の正体といふもの、モラルといふものを肉体自体の思考から探しださねばならぬといふことが、期せずして起つたのではないかと思ふ。》



理知の中にもたぶん真の知性はあるはずで、「実は理知以上に知的な」という箇所を見るとおそらく安吾もそう考えている。しかし、それよりは肉体自体を見るほうが、まやかしでない真の知性が分かりやすいというのが安吾の主張である。とするならば、それがたまたまサルトルであっただけに過ぎず、固有名詞に過度にとらわれる必要はない。安吾は「徹頭徹尾」や「たゞ」という言葉を頻用する作家で、安吾にとって大切なのはここでも「徹頭徹尾」の方なのであって、サルトル織田作之助といった固有名詞、あるいは肉体/精神といった二項の差異は本質的にはどうでもよいのである。「白痴」を読めば、そのことも分かる。



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新田次郎劔岳〈点の記〉』に用例がある。



《「お告げです。神様のお告げです」
 と長次郎は云った。
「では訊くが、雪を背負って登り、雪を背負って帰れとは、いったいどういう意味なのだ」
「雪渓を登り、雪渓を降りよということだと思います。劔岳の東面にある二つの大雪渓のうち右の大雪渓(現在の長次郎谷)を登る以外に道はないと教えているのです。あの大雪渓はまるで白い柱のように、聳え立っていますから、一歩足を踏み入れてしまうと登るにしても、下るにしても、雪を背負いこんだ恰好になります。背負うというのは物を背負うという意味だけではなく、かかわりを深くするという意味にも取れます」
 長次郎は、行者の残した言葉の秘密を解いた。そう云われてみると、そのとおりのように柴崎にも思われた。柴崎自身も、その雪渓を登る以外に、登山路はないように考えていた。行者の言葉が、
劔岳に登山するには徹頭徹尾大雪渓に執着せよ)
 という意味だとすれば、それこそ立山行者の秘語として長い間伝えられて来たものとしてまことにふさわしい。》



映画化されもした劔岳に登頂した男たちの物語。洞窟の中の十本ほどの蝋燭の火がいっせいに消え、聞こえたという「雪を背負って登り、雪を背負って帰れ」なる声をどう理解するか。登山というのは、幾多の判断=解釈の連続であるわけだが、ここは特に「背負う」という言葉の解釈がいい。「背負うというのは(略)かかわりを深くするという意味にも取れ」る、と。登山者にとって「背負う」という言葉の意味は通例以上に重い。「徹頭徹尾」「執着」という言葉が生きるのは、覚悟を決めなければならぬ極限状態だからこそでもあるのだが、「背負う」という言葉の解釈の深化も関与しているだろう。


*1:「徹骨徹髄」の項、参照。http://d.hatena.ne.jp/Cixous/20090219