テンカムテキ




 天 下 無 敵






この世にかなうものがいないほど強いこと、優れていること。



「海内無双」「国士無双」「天下一品」「天下第一」「天下無双」「天下無比」「天下無類」「当代随一」「当代第一」「当代無双」「斗南一人」など、類義語多数。



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荘子荘子』〈説剣〉の故事に由来する。
《王曰「子之剣、何能禁制。」曰「臣之剣、十歩一人、千里不留行。」王大悦之、曰「天下無敵矣。」》
(王曰く「子の剣、何をか能く禁制す」と。曰く「臣の剣、十歩にして一人、千里にしても留まらず行く」と。王大いに之を悦びて、曰く「天下無敵なり」と。)
剣が好きな趙の恵文王は人を集めては撃剣の大会を行い、多くの人が死んでいった。荘子が王を諌めることになったが、王は剣の達人としか会わないという。そこで荘子は「自分は十歩歩くごとに一人を殺し、千里進んでもまだ行ける」とうそぶいて、王に「天下無敵」と言わせてから天下無敵の剣を説く。人殺しの剣と、天下を治める剣の本質的な区別を教えたというわけである。



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菊池寛藤十郎の恋」に用例がある。
《三ヶ津の総芸頭とまで、讃えられた坂田藤十郎は傾城買の上手として、やつしの名人としては天下無敵の名を擅にして居た。が、去年霜月、半左衛門の顔見世狂言に、東から上った少長中村七三郎は、江戸歌舞伎の統領として、藤十郎と同じくやつしの名人であった。二人は同じやつしの名人として、江戸と京との歌舞伎の為にも、烈しく相争わねばならぬ宿縁を、持っているのであった。》
天下無敵と言いながらライバルが出現してしまう矛盾はさておき、そうした雲の上の戦いというもの劇には欠かせないお膳立てと言える。



ちなみに主人公である藤十郎は「もっと深いもっと本質的なある物」に悩んでいるのだが、にもかかわらず語り手は「一番」「天下無敵」「王座」「芝居国の国王」「芝居国の長者」「歌舞伎の長者」「三国一の名人」といった最上級を表す下劣な語彙で取り囲もうとしていることも見逃してはなるまい。



語り手は、物語の中の“世評”に寄り添う。その世評は、藤十郎の「もっと深いもっと本質的なある物」を、誰が一番かという勝ち負けの構図などの分かりやすい物語に変換する装置となっている。いや、というより、如上の語彙が物語の中にそのような“世評”を創り出す、と言った方が正確かもしれない。そこに菊池寛ストーリーテラーとしての資質が遺憾なく発揮されていると私は見るが、ともあれ、そういったことも含めて、「天下無敵」という四字熟語が「藤十郎の恋」というテクストを読み解く際の重要なキーワードの一つと言えるのではないかと考えているところである。



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織田作之助「聴雨」の冒頭も見る。



《午後から少し風が出て来た。床の間の掛軸がコツンコツンと鳴る。襟首が急に寒い。雨戸を閉めに立つと、池の面がやや鳥肌立つて、冬の雨であつた。火鉢に火をいれさせて、左の手をその上にかざし、右の方は懐手のまま、すこし反り身になつてゐると、
「火鉢にあたるやうな暢気な対局やおまへん。」といふ詞をふと私は想ひ出し、にはかに坂田三吉のことがなつかしくなつて来た。
 昭和十二年の二月から三月に掛けて、読売新聞社の主催で、坂田対木村・花田の二つの対局が行はれた。木村・花田は名実ともに当代の花形棋士、当時どちらも八段であつた。坂田は公認段位は七段ではあつたけれど、名人と自称してゐた。
 全盛時代は名人関根金次郎をも指し負かすくらゐの実力もあり、成績も挙げてゐたのである故、まづ如何やうに天下無敵を豪語しても構はないやうなものの、けれど現に将棋家元の大橋宗家から名人位を授けられてゐる関根といふ歴とした名人がありながら、もうひとり横合ひから名人を名乗る者が出るといふのは、まことに不都合な話である。おまけに当の坂田に某新聞社といふ背景があつてみれば、ますます問題は簡単で済まない。当然坂田の名人自称問題は紛糾をきはめて、その挙句坂田は東京方棋士と絶縁し、やがて関東、関西を問はず、一切の対局から遠ざかつてしまつた。人にも会はうとしなかつた。》



木村は木村義雄。後の十四世名人である。花田は花田長太郎。後の贈九段である。
さてオダサクは、大阪ということで坂田三吉を取り上げたと思われがちだが、それは違う。それももちろん大きな要因だが、劇の好きな文学者としての天分が働いたと見る。「二人の名人」問題は棋史に残る事実でもあるが、そうした雲の上の決戦に面白さを感受しフォーカスしてしまうオダサクの文章は、さすがに劇を研究していた人の手並み、と思わせる。



菊池寛織田作之助も愛棋家の劇作家だが、将棋と劇には通じるものがあると両方好きな人間は私見を挿みたくなるが、止める。



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日向蓬「モンスター」にも用例がある。



《「そういう問題じゃねーだろ。お前さ、妖怪なんかにシンパシー感じてないで、息子の心配してやれよ」
 「してるってば。してるけどさ、康介の恐怖感のツボが理解できない。だって、あいつ、『ゲゲゲの鬼太郎』大好きなんだよ。てっきり我が息子は、天下無敵の怖いもの知らずだと思ってたんだけどな」
  すると、兄が急にニヤニヤして言った。
 「そう言うけど、弥々子、お前だって」
 「何よ?」
 「遊園地の『ミラーハウス』、覚えてるか? 張り切って入ったくせに、途中で怖くなってベソかいてさ」」》



こちらはまた違う水準での争い。



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結局、多くの場合、「天下無敵」と言いつつ、敵は意外といるものなのかもしれない。



浅田次郎『きんぴか』の用例を引く。
《男は自分を天下無敵の事業家だと思いこんでいたのである。》



皆、「天下無敵」と思いこんでいるだけで、実際はいろいろなライバルが出現するものなのである。