テットウテツビ




 徹 頭 徹 尾






最初から最後まで同じ方針を貫き通すさま。100%
「一伍一什」「一部始終」「終始一貫」「首尾一貫」ともいう。



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『河南程氏遺書』第十八の以下の部分が出典である。
《「不誠無物、誠者物之終始」、猶俗説徹頭徹尾不誠、更有甚物也。》



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夏目漱石『坊つちやん』の用例は以前に引いたが*1、再掲する。



《野だは例のへらへら調で「実に今回のバッタ事件及び咄喊事件は吾々心ある職員をして、ひそかに吾校将来の前途に危惧の念を抱かしむるに足る珍事でありまして、吾々職員たるものはこの際奮って自ら省りみて、全校の風紀を振粛しなければなりません。それでただ今校長及び教頭のお述べになったお説は、実に肯綮に中った剴切なお考えで私は徹頭徹尾賛成致します。どうかなるべく寛大のご処分を仰ぎたいと思います」と云った。野だの云う事は言語はあるが意味がない、漢語をのべつに陳列するぎりで訳が分らない。分ったのは徹頭徹尾賛成致しますと云う言葉だけだ。
 おれは野だの云う意味は分らないけれども、何だか非常に腹が立ったから、腹案も出来ないうちに起ち上がってしまった。「私は徹頭徹尾反対です……」と云ったがあとが急に出て来ない。「……そんな頓珍漢な、処分は大嫌いです」とつけたら、職員が一同笑い出した。》



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泉鏡花婦系図」にも用例がある。



《中途で談話に引入れられて鬱ぐくらい、同情もしたが、芸者なんか、ほんとうにお止しなさいよ、と夫人が云う。主税は、当初から酔わなきゃ話せないで陶然としていたが、さりながら夫人、日本広しといえども、私にお飯を炊てくれた婦は、お蔦の他ありません。母親の顔も知らないから、噫、と喟然として天井を仰いで歎ずるのを見て、誰が赤い顔をしてまで、貸家を聞いて上げました、と流眄にかけて、ツンとした時、失礼ながら、家で命は繋げません、貴女は御飯が炊けますまい。明日は炊くわ。米を煑るのだ、と笑って、それからそれへ花は咲いたのだったが、しかし、気の毒だ、可哀相に、と憐愍はしたけれども、徹頭徹尾、(芸者はおよしなさい。)……この後たとい酒井さんのお許可が出ても、私が不承知よ。で、さてもう、夜が更けたのである。
 出て来ない――夫人はどうしたろう。》



もちろん、次の「この後たとい酒井さんのお許可が出ても、私が不承知よ。」というところに「徹頭徹尾」の芯はきっぱりと見えるのだが、しかし「徹頭徹尾」と云いつつ、「気の毒だ」「可哀相に」というふうに「憐憫」するところに配慮言語行動としての肌理細かさがあり、そこが他の用例と違っている気がする。



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谷崎潤一郎細雪』にも用例がある。
《本家はもちろん、こいさんにも云ってくれては困る、僕はこの問題には徹頭徹尾局外者でありたい。》



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坂口安吾「肉体自体が思考する」にも用例がある。



《我々の倫理の歴史は、精神が肉体に就て考へてきたのだが、肉体自体もまた考へ、語りうること、さういふ立場がなければならぬことを、人々は忘れてゐた。知らなかつた。考へてみることもなかつたのだ。
 サルトルの「水いらず」が徹頭徹尾、たゞ肉体自体の思考のみを語らうとしてゐることは、一見、理知がないやうだが、実は理知以上に知的な、革命的な意味がある。
 私は今までサルトルは知らなかつたが、別個に、私自身、肉体自体の思考、精神の思考を離れて肉体自体が何を語るか、その言葉で小説を書かねばならぬ。人間を見直すことが必要だと考へてゐた。それは僕だけではないやうだ。洋の東西を問はず、大体人間の正体といふもの、モラルといふものを肉体自体の思考から探しださねばならぬといふことが、期せずして起つたのではないかと思ふ。》



理知の中にもたぶん真の知性はあるはずで、「実は理知以上に知的な」という箇所を見るとおそらく安吾もそう考えている。しかし、それよりは肉体自体を見るほうが、まやかしでない真の知性が分かりやすいというのが安吾の主張である。とするならば、それがたまたまサルトルであっただけに過ぎず、固有名詞に過度にとらわれる必要はない。安吾は「徹頭徹尾」や「たゞ」という言葉を頻用する作家で、安吾にとって大切なのはここでも「徹頭徹尾」の方なのであって、サルトル織田作之助といった固有名詞、あるいは肉体/精神といった二項の差異は本質的にはどうでもよいのである。「白痴」を読めば、そのことも分かる。



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新田次郎劔岳〈点の記〉』に用例がある。



《「お告げです。神様のお告げです」
 と長次郎は云った。
「では訊くが、雪を背負って登り、雪を背負って帰れとは、いったいどういう意味なのだ」
「雪渓を登り、雪渓を降りよということだと思います。劔岳の東面にある二つの大雪渓のうち右の大雪渓(現在の長次郎谷)を登る以外に道はないと教えているのです。あの大雪渓はまるで白い柱のように、聳え立っていますから、一歩足を踏み入れてしまうと登るにしても、下るにしても、雪を背負いこんだ恰好になります。背負うというのは物を背負うという意味だけではなく、かかわりを深くするという意味にも取れます」
 長次郎は、行者の残した言葉の秘密を解いた。そう云われてみると、そのとおりのように柴崎にも思われた。柴崎自身も、その雪渓を登る以外に、登山路はないように考えていた。行者の言葉が、
劔岳に登山するには徹頭徹尾大雪渓に執着せよ)
 という意味だとすれば、それこそ立山行者の秘語として長い間伝えられて来たものとしてまことにふさわしい。》



映画化されもした劔岳に登頂した男たちの物語。洞窟の中の十本ほどの蝋燭の火がいっせいに消え、聞こえたという「雪を背負って登り、雪を背負って帰れ」なる声をどう理解するか。登山というのは、幾多の判断=解釈の連続であるわけだが、ここは特に「背負う」という言葉の解釈がいい。「背負うというのは(略)かかわりを深くするという意味にも取れ」る、と。登山者にとって「背負う」という言葉の意味は通例以上に重い。「徹頭徹尾」「執着」という言葉が生きるのは、覚悟を決めなければならぬ極限状態だからこそでもあるのだが、「背負う」という言葉の解釈の深化も関与しているだろう。


*1:「徹骨徹髄」の項、参照。http://d.hatena.ne.jp/Cixous/20090219