モウカヨウソ




 孟 軻 養 素






性善説を唱えた孟子の言うように、先人の徳に学びながら、人のもって生まれたままの淑性を手厚く育てていくこと。
「孟軻敦素」ともいう。類義語としては「揚雄草玄」がある。



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李瀚編『蒙求』徐子光補注本の標題に用例がある。



 「孟軻養素 揚雄草玄」



孟子は、唐虞三代の徳を紹述し『詩』や『書』を編纂して、自らも「浩然之氣」を養い善性を全うした。揚雄もまた『太玄経』を執筆し、世の動きに惑わされることがなかった。



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周興嗣千字文』には「孟軻敦素」の用例がある。



 「孟軻敦素 史魚秉直」
  (孟軻は素を敦くし、史魚は直を秉る。)



孟子は生来の素質を手厚く育てることを唱え、史魚は正直でまっすぐな生き方を貫いたという意味である。



なお脇道に逸れるが、ついでなので「史魚秉直」についても一言しておく。
史魚は、史鰌ともいう。「死んで諌める」ということを初めて行った衛の大夫であり、「史魚屍諫」「史魚至忠」「史鰌屍諌」「史魚黜殯」という四字熟語で知られる。彼はいまわの際に息子にこう遺言した。「王を正しく導けなかった自分の亡骸に葬式・埋葬の類は一切無用、ただ窓の下に放置しておいてくれ」と。弔問に来た王・霊公がその無惨な遺体を見て、大いに反省したことはいうまでもない。厚く葬儀を執り行ったのはもちろん、生前の史魚の諌めに従った。矢のように真っ直ぐな史魚の生き方を「直なる哉」と褒めた孔子が、「死んだ後に王を諌めたのは史魚だけである」と絶賛したというのも首肯できる*1



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森鷗外伊沢蘭軒」によく目を凝らすと、次のような引用がある。



《巻首の四大字は東久世通禧公、次は養素軒柳原大納言前光公、愛古堂磐渓、秋月公、大給亀崖公(即松平縫殿頭の事也)、跋は片桐玄理と申せし家塾に居りし御存之者、今文部の督学寮に出仕いたし居申候。》



柳原前光とは大正天皇の生母・愛子の兄、歌人柳原白蓮の父である。書家としても知られる。「養素軒」とあるが、「養素」とはつまり、孟子の「養素」、すなわち「孟軻養素」から来ていることが既に明らかであろう。



管見のかぎり、今日この四字熟語を掲載する通俗の辞典は紙媒体・電網ともに皆無である。現時では用例も極めて少なく、ここにこの四字熟語を登記し、広く世に紹介せし所以である。





*1:「史魚屍諌」の項 http://d.hatena.ne.jp/Cixous/20100222も参照のこと。