シギョシカン




 史 魚 屍 諌






史魚のように、自らの亡骸によって主君をいさめること。
史魚は、衛の大夫・史鰌のこと。官は史、名は鰌、字は子魚である。正直な男として知られる。
「史魚屍諫」「史魚至忠」「史魚黜殯」「史魚之直」「史魚秉直」「史鰌屍諌」ともいう。*1



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隷書の手本として非常に名高い「曹全碑」という碑文には次の頌詞がある。



 「清擬夷斉 直慕史魚
  (清きこと夷斉に擬し、直きこと史魚を慕ふ)



要するに、曹全という人物は、清廉においては伯夷叔斉、正直においては史魚のようだったと、生前の徳を頌えているのである。



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韓嬰『韓詩外伝』七が出典である。
《昔、衛の大夫史魚病みて且に死せんとするに、其の子に謂ひて曰く、「我数ゝ蘧伯玉の賢を知れども進む能はず、弥子瑕の不肖なれども退く能はざれば、死するも当に喪を正堂に居おくべからず、我を側室に殯すれば足れり」と。衛君其の故を問ふ。子父言を以て君に聞す。君乃ち伯玉を召して之を貴び、彌子瑕は之を退け、殯を正堂に徙し、礼を成して後ち去る》
平たく言えば、史魚はいまわの際に、息子にこう遺言したということである。「王を正しく導けなかった無能な自分の亡骸に、葬式・埋葬の類は一切無用である。ただ窓の下に放置しておいてくれ」と。死後、弔問に訪れた王・霊公がその無惨な遺体を見て、愕然とし、大いに反省したことはいうまでもない。厚く葬儀を執り行ったのはもちろん、生前の史魚の諌めに従い、優れた蘧伯玉を登用し、愚かな弥子瑕をクビにしたというわけである。孔子は、死後に王を諌めた最初の例として史魚を絶賛した。



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李瀚編『蒙求』徐子光補注本の標題にも用例がある。



 「史魚黜殯 子嚢城郢」



史魚は諫を果たすべく自らの殯礼を黜けよと遺言し、子嚢は自分の果たせなかった郢の築城を遺言した。



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呉兢撰『貞観政要』にも、杜如晦の言の中に用例が見える。
《杜如晦対へて曰く、天子に諍臣有れば、無道なりと雖も、其の天下を失はず。仲尼称す、直なるかな史魚。邦、道有るも矢の如く、邦、道無きも矢の如し、と。世基、豈に煬帝の無道なるを以て、諌諍を納れざるを得んや。遂に口を杜ぢて言ふ無く、重位に偸安し、又、職を辞し退を請ふ能はざるは、則ち微子が佯狂にして去ると、事理、同じからず。》
杜如晦は、史魚の例によって、煬帝を諌めなかった虞世基を批判する。



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中島敦『弟子』に史魚の名が出てくる。



《「それは何も一身の保全ばかりが大切とは言わない。それならば比干を仁人と褒めはしないはずだ。但、生命は道のために捨てるとしても捨て時・捨て処がある。それを察するに智をもってするのは、別に私の利のためではない。急いで死ぬるばかりが能ではないのだ。」
 そう言われれば一応はそんな気がして来るが、やはり釈然としない所がある。身を殺して仁を成すべきことを言いながら、その一方、どこかしら明哲保身を最上智と考える傾向が、時々師の言説の中に感じられる。それがどうも気になるのだ。他の弟子達がこれを一向に感じないのは、明哲保身主義が彼等に本能として、くっついているからだ。それをすべての根柢とした上での・仁であり義でなければ、彼等には危くて仕方が無いに違いない。
 子路が納得し難げな顔色で立去った時、その後姿を見送りながら、孔子が愀然として言った。邦に道有る時も直きこと矢のごとし。道無き時もまた矢のごとし。あの男も衛の史魚の類だな。恐らく、尋常な死に方はしないであろうと。》


*1:「孟軻養素」の項 http://d.hatena.ne.jp/Cixous/20100221も参照のこと。