シュンプウタイトウ




 春 風 駘 蕩






春風がそよそよと気持ちよく吹くのどかな様子。
春風のように穏やかなさま。穏和でのんびりした人柄。



「春光駘蕩」「春色駘蕩」ともいう。「駘蕩」は「駘宕」と書くことも。
いずれにせよ「秋霜烈日」という四字熟語と、著しい対照をなす。



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小栗風葉『恋慕ながし』に用例がある。



《「花やあらぬ初桜の、祇園林下河原、南を遙に眺むれば、大慈応護の薄霞----
と華やかに吹き込んで、陽艶三月、春風駘蕩の調に移ったのに、奏者の息は益々迫って、聴者は弥々聞苦しくなるばかり。姿勢は頽れて、指は外れて、然しも昔のまゝの贔負を嘱し一部の人も、少し意外の心持である。》



『恋慕ながし』というテクストは、たとえば〈音楽と文学〉などというテーマに関心がある向きには必ず参照してほしい、密に表現分析をしてほしいと以前からひそかに切望していたものなのだが、この引用からもそうした雰囲気の一端がうかがい知れよう。調べを説明するのに「春風駘蕩」という四字熟語を用いるところ、今日ではあまり見ない例かもしれない。



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横光利一旅愁』にも用例がある。



《「僕は婦人に対してだけは、むかしから春風駘蕩派だからな。何をしたか君なんか知るものか。」》



フェミニストと同義なのだろうが、フェミニストと言うのとは微妙にニュアンスが異なるから妙なものだ。「春風駘蕩」という四字熟語を使うことによって、女性に対して優しい男性像が思い浮かぶと同時に、だらしなく鼻の下を伸ばして、でれっとしている男性像も想起される。



横光利一には『上海』に「人の流れは祭りのように駘蕩として、黄色の招牌の下から流れて来た」という用例があり、『家族会議』にも「春風駘蕩としてゐて起居動作が日常と少しも変っていなかった」という用例がある。



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太宰治津軽』にも用例がある。少し長めに引用する。






《「これは、いかん。」と言つた。「科学の世の中とか何とか偉さうな事を言つてたつて、こんな凶作を防ぐ法を百姓たちに教へてやる事も出来ないなんて、だらしがねえ。」
「いや、技師たちもいろいろ研究はしてゐるのだ。冷害に堪へるやうに品種が改良されてもゐるし、植附けの時期にも工夫が加へられて、今では、昔のやうに徹底した不作など無くなつたけれども、でも、それでも、やつぱり、四、五年に一度は、いけない時があるんだねえ。」
「だらしが無え。」私は、誰にとも無き忿懣で、口を曲げてののしつた。
 N君は笑つて、
「沙漠の中で生きてゐる人もあるんだからね。怒つたつて仕様がないよ。こんな風土からはまた独得な人情も生れるんだ。」
「あんまり結構な人情でもないね。春風駘蕩たるところが無いんで、僕なんか、いつでも南国の芸術家には押され気味だ。」
「それでも君は、負けないぢやないか。津軽地方は昔から他国の者に攻め破られた事が無いんだ。殴られるけれども、負けやしないんだ。第八師団は国宝だつて言はれてゐるぢやないか。」
 生れ落ちるとすぐに凶作にたたかれ、雨露をすすつて育つた私たちの祖先の血が、いまの私たちに伝はつてゐないわけは無い。春風駘蕩の美徳もうらやましいものには違ひないが、私はやはり祖先のかなしい血に、出来るだけ見事な花を咲かせるやうに努力するより他には仕方がないやうだ。いたづらに過去の悲惨に歎息せず、N君みたいにその櫛風沐雨の伝統を鷹揚に誇つてゐるはうがいいのかも知れない。》






なるほど、北国・津軽の歴史は、凶作との戦いに尽きよう。そして、そうした風土に育まれた人間が、春風駘蕩であろうはずもない。なお、対義語に「秋霜烈日」ではなく「櫛風沐雨」という四字熟語を用いていることにも目を止めておこう。



ついでながら、太宰治は「春風駘蕩」という四字熟語がお気に入りであったようだ。他の作家に比べて圧倒的に用例が多い。管見のかぎり、『津軽』の他にも『右大臣実朝』「散華」「新釈諸国噺」『惜別』『パンドラの匣』に用例があった。おそらく誰も指摘していないだろうから、昭和18年から昭和20年の間に集中しているということを指摘しておこう。



なお、『右大臣実朝』の用例については、円満字二郎太宰治の四字熟語辞典』を参照のこと。



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吉川英治『忘れ残りの記』にも用例がある。



《酒を愛し、郷人を愛し、いつも春風駘蕩といったような大人風な好々爺であったらしい。》



太宰治が南北の別で「春風駘蕩」の四字を想起するのに対して、吉川英治は老若の別で「春風駘蕩」を想起した。



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 春風をあふぎ駘蕩象の耳   山口青邨 》






俳句の世界でも「春風駘蕩」の四字熟語は欠かせぬと見える。たとえば、近代の俳句に大きな影響を与えた『日本人』という雑誌には「我国に在りて春光駘蕩、最も人心を暢快ならしむるは四月の候と為す」(「春」)という一節があるほどだ*1。というわけで、俳句における用例は枚挙に暇がないのだが、私は特に掲句が好きだ。ほのぼのする。「駘蕩」はまさに象のためにこそ存在する擬態語なのだと思えてしまう。


                            

*1:『日本人』明治34年2月