ソウシソウアイ




 相 思 相 愛






互いに慕い合い、愛し合っていること。
俗にいう「相惚れ」「両思い」「ラブラブ」。



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田中正造「非常歎願書」に用例がある。



《越へて明治三十四年十二月に至り各地の有志約二千名親しく来りて沿岸被害民を慰問し、谷中川辺二村の人民亦許多の金品寄贈の義挙に接せり。此時に当り海老瀬村松本英一氏ハ自宅を以て仮設臨時病室となし、東京の仏教徒ハ医師及薬価を寄贈し、谷中、利島、川辺、三村を始め其他村々の人民多数此救護の恩に浴せり。而して又東京の基督教徒ハ芝区芝口に病室を設けて多数の患者を収容し、牛込大久保の慈愛館を開きて沿岸数十名の児童を養育し、各貲財を投じて救護の事に尽くせり。蓋し艱難相扶け窮厄相救ふは愛情の発露にして実に人道の至極とする処なり。殊に茨城の古河町新合村、埼玉の川辺利島の二村、及群馬の海老瀬村、我谷中村等ハ互に河流を抱きて隣接するが故に、地勢治水の関係上苦楽を共にするを以て常に相思相愛の情味を脱する能はざるもの存すればなり。夫れ一村を失ふハ一村の災厄に止まらず、小にしてハ比隣の数百村大にしてハ一国の災厄と為るなり。故に若し一朝谷中村を失はゞ海老瀬村亦其存在を危うせざるを得ず。両村相互の関係斯の如く深し。海老瀬村の谷中村に対する同情決して偶然にあらず。》



明治天皇に直訴し足尾鉱毒事件を告発したことで知られる田中正造。この引用はその後、自らの住む谷中村がダム中に沈むことになり、強制廃村となって追い出されることに抵抗した文章の一節である。この頃の正三には聖書の影響が指摘されるが、同じ川の沿岸で隣接する村同士の「相思相愛」を唱えているのは、決して机上の論理ではなく、生活する一市民の観察によって導かれた真の友愛精神であると私は思う。



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舟橋聖一『好きな女の胸飾り』に用例がある。



《見習いになる前後までは相思相愛という風に考えられたこともある。》



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田辺聖子『新源氏物語』にも用例がある。



《源氏を見上げる紫の上。ほんとうに、相思相愛の理想的な恋人同士にみえた。》



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井上ひさし『十二人の手紙』にも用例がある。



《どっちでもいいけど、もう片想いはやめました。どうせ想うなら相思相愛でなくっちゃいやだもの。》



「相思」という語であれば古典の用例も豊富だし、田中正造のような用例ならばともかく、男女の両想いを意味する「相思相愛」という語の用例となると、割に新しいものばかりという印象を受けざるを得ない。



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「どうすれば、相思相愛になれるのか?」



Aさんへ:
申し訳ございません。四字熟語の意味や用例についてなら、それなりにお教えできるはずなのですが、この種の問いには、なんともお答えのしようがございません。どうか、悪しからず、ご了承願います。ただし、切実なその願いが、叶いますことを、陰ながらお祈りするものです。