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 同 声 異 俗






生まれたばかりのときは誰もが同じような声を出すが、成長すると、教育や習慣といった後天的な養素によって人間性に違いが出るということ。



「生まれて声を同じくし、長じて俗を異にする」の略で、「習与性成」(習い性と成る)ともいう。



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荀子荀子』〈勧学〉を出典とする。



《干越夷貉之子、生而同聲、長而異俗、教使之然也。 》



 (干越夷貉の子、生まれて声を同じくするも、長じて俗を異にするは、教、之をして然らしむるなり。 )



孟子は「性善」説の人、荀子は「性悪」説の人と、型通りに覚えている人が多すぎる。しかし、『荀子』の勧学篇を読むと、そのような図式では誤解を招いてしまうということが分かるだろう。勧学篇を読むと、有名な「出藍の誉れ」を説いている箇所があるし、「駑馬十駕」(非常に劣った駑馬であっても十日馬車を引き、優れた騏驥をも勝ることがあるように、才能がなくても努力することには意味がある)を奨励している箇所もある。これらを忘れて図式化する弊は戒めなければなるまい。「同声異俗」にしても同じことだが、荀子は素質を越える努力に人間の本質を見ようとした思想家なのである。だから、教育を重視する。



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幸田露伴「運命は切り開くもの」に次のような一節がある。



《人相家の方では、世俗の美しいといふのには却て宜しく無く、世俗が醜いといふのに却て宜しいとするのが甚だ多いのでありますが、美醜の論だけに於てさへ前に申しました通り、必ずしも何様の彼様のといふことは定められぬのであります。それで二千年の遠い古の荀子といふ学者さへ非相論を著はして、相貌によつて運命が定められているといふ思想を粉砕して居るのであります。単に相貌から申しますれば、孔子様は陽虎といふ詰らぬ人に酷肖て居られたので人違をされた位ですが、陽虎の人となりや運命が孔子様とは大変な相違であつたことに誰しも異論はありません。》



この伝でいけば、「同声異俗」に倣って「同顔異俗」あるいは「同相異俗」といった新しい四字熟語を創作することもできそうだ。ともあれ、容貌や才能がたとえDNAによって定まっていたとしても、人間の評価などというものは社会的、相対的、後天的に決められてしまうものである以上、荀子露伴の説はいつまでも傾聴に値すると言えるだろう。