タキボウヨウ
多 岐 亡 羊
学問の筋道があまりに多方面に展開しすぎて、真理を見失ってしまうこと。
指針や進路など、人生の選択に迷う場面についても使う。
「岐路亡羊」「亡羊之嘆」ともいう。
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列御寇『列子』〈説符〉が出典である。
《心都子曰、「大道以多岐亡羊、學者以多方喪生。》
(心都子曰はく、「大道は岐多くして以つて羊を亡ひ、学者は方多くして以つて生を喪ふ。)
中国の戦国時代のこと、楊朱の隣家から逃げ出した一匹の羊を村人が総出で追いかけたが、あまりに分かれ道が多すぎて、結局捕まえ損ねたという話を聞いた楊朱はずっと押し黙っていた挙げ句、学者も同じと言ったと弟子の心都子が伝えている。
大きな道にはいくつものの分かれ道がある。だからこそ、逃げた羊を見失ってしまう。これは学問の道にも置き換えられるというのが楊朱一流の見立てというわけだが、たしかに多くの学者は「木を見て森を見ず」式に視野が狭いという先入観はある。それはある程度、当たっているようにも見えるが、中には時々は引いて見て、全望し自らの位置を確かめながら仕事をする方もおられる。
『列子』には「呑舟の魚は枝流に游がず」という言葉もある。大人物は高遠な志を抱いているから、つまらぬ者とは交わらず、細かいことにはこだわらないという意味だが、大志というか、真理というか、本質というか、全体というか、原理原則というか、王道というか、ともあれ、視野広く、しっかりした大局観を持ちたいものだと思うものである。
なお学者でなくとも、それぞれ何かを追究する者ではあるのだから、この戒めには耳を傾けておきたいところ。『列子』の中には、お金持ちになろうと思って泳ぎを習うことを決意するが、ために溺れて死す者の例もあるが、笑うに笑えない話である。
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貝原益軒『和俗童子訓』に用例が見える。
《学問し道をまなぶには、専一につとめざれば、多岐の迷とて、あなたこなたに心うつりて、よき方にゆきとどかざるもの也》
「学を本にして芸を末にする」と説いたことでも知られる貝原益軒のすぐれた教育論によれば、あれこれ手をつけてはいけないということになる。なるほど情報量が圧倒的に増えた今日においても、最終的には「フォーカス&エナジー」しか対策はないのかもしれないと思う。
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正岡子規「獺祭書屋俳話」にも用例がある。
《世人をしてその帰着するところを知らず、竟に多岐亡羊の感を起こさしむるに至れり。》
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戸坂潤「思想と風俗」には次のくだりがある。
《無論仮にも学問的な形を取る以上、どんな哲学でもいつも研究の途上にあるものだから、そこから当然、或る程度の出入りや交錯は避け難い。之をさえ均して了おうとすれば、研究上のテーマの積極性というものは失われるに相違ない。だが何と云っても今日の観念論の陣営の内部の乱麻のような混乱は甚だし過ぎる。――この現象は一つには確かに、観念論の伝統の系統が複雑であることに由来している。夫があまりに複雑であるために、今日に至るまでにそれの整理される余裕がなかったばかりでなく、今日では無理にそれが繊細化される必要に迫られた結果、益々多岐に分れて拾収出来なくなったのに由来している。だがこの伝統の複雑さ自身は何に原因しているかと云えば、それは観念論そのものの根本性質から来ていることを注意しなくてはならない。》
今日はどのような学問でも、このような細分化が進んでいると思われる。観念論の場合は、それ自体の根本性質に由来すると主張するが、、私は学問それ自体の根本性質にも由来すると考えるが、どうだろうか。