カンゼンムケツ




 完 全 無 欠






どこから見ても欠点がなく、完璧であること。
「完全無瑕」「完全無比」「完美無欠」「金甌無欠」「十全十美」「尽全尽美」ともいう。



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石川啄木「雲は天才である。」に用例がある。



《正真の教育者というものは、其完全無欠な規定の細目を守って、一豪乱れざる底に授業を進めて行かなければならない、若しさもなければ、小にしては其教える生徒の父兄、また月給を支払ってくれる村役場にも甚だ済まない訳、大にしては我々が大日本の教育を乱すといふ罪にも坐する次第で》



もちろん、これを啄木自身の声と同一化することは性急である。むしろ啄木の仮想敵とみたほうが適切である。それはどこで分かるか。なるほど、啄木を思わせる若い代用教員が自作の歌を歌わせていて、それを校長が説教している場面がここだという説明はある。しかし、あらゆる人物が書き手の声を分有しているという理屈がある以上、そのような作家論はもはや成立しない。



ここでは四字熟語を起用してしまった書き手の無意識に迫る方が手っ取り早いだろう。「完全無欠」という四字熟語は「完全」と「無欠」という同義の二字熟語をわざわざ重ねた大袈裟な語彙である。そのような大袈裟な語彙を潜ませることで、暗に校長の説教の馬鹿馬鹿しさを衝こうとする書き手の批評が垣間見えるのだ。



校長の言うような「完全無欠」な教員がいたら、息が詰まるし面白くないという批判が四字熟語のうちには潜在している。そう思わせてしまう力が、この四字熟語にはそもそも宿っているのだ。書き方の巧拙はともかく、誇張し強調しすぎるとかえって滑稽になってしまう、その滑稽を笑おうとする書き方の一つであり、四字熟語をそういう観点から眺めることも必要ではないかと考えさせてくれる。



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国木田独歩「富岡先生」にも用例がある。



《もし梅子嬢の欠点を言えば剛という分子が少ない事であろう、しかし完全無欠の人間を求めるのは求める方が愚である、女子としては梅子嬢の如き寧ろ完全に近いと言って宜しい、或は剛の分子の少ないところが却て梅子嬢の品性に一段の奥ゆかしさを加えておるのかとも自分は思う。》



先の校長のように「完全無欠」を求める言説がある一方で、それを求めるのは愚であるという批評的な言説もかなり一般化されていたのではないか。しかし、ここでは、口ではそう言ってもやはり「完全無欠」を求めている気もしないでない。



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樋口一葉「日記」〈明治26年2月6日〉には次の用例がある。



こゝろざすは完全無瑕の一美人をつくらんの外なく、目をとぢて壁にむかひ、耳をふさぎて机に寄り、幽玄の間に理想の美人をもとめんとすれば、天地みなくらく成りて、そのうつくしき花の姿も、その愛らしきびんがの声も、心のかゞみにうつりきたらず。……かくまでに我恋わぶる美人は、まさしく世の中にあり得べからざるか。もしは我れに宿世の縁なくして、凡俗の花紅葉ならでは我心の目にうつらざるか。もしは天地の間に誠の美といふものあらざるか。もしは我が眼に美ならずとみるものまことの美か。》



完全無瑕の美人なるものは存在するのか。存在しないのか、存在するのに気づいていないだけなのかと懊悩しながら、一葉女史は完全無瑕の美人の創造を志すわけである。



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三島由紀夫「班女」(『近代能楽集』)にも用例がある。



《あの人は完全無欠な、誰も動かしようのない宝石なんです。》



いかにも三島的な用例である。



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夢野久作「笑う唖女」にも用例がある。



《……それは彼の生れて初めての過失であると同時に、彼の良心の最後の致命傷であった。
 その後、その重大な過失の相手である唖女のお花が行衛不明となり、そのお花の言葉を理解し得るタッタ一人の父親、門八が、彼女を無くした悲しみの余りに首を縊って死んだと聞いた時には彼は、正直のところホッとしたものであった。最早、天地の間に彼の秘密を知っている者は一人も無い。この僅かな秘密の記憶一つを、彼自身がキレイに忘れて終いさえすれば、彼は今まで通りの完全無欠の童貞……絶対無垢の青年として評判の美人……初枝を娶る事が出来るのだ。》



最近はセクシュアリティ研究の分野で童貞についての歴史的な研究も進んできている印象だが、この「完全無欠の童貞」という奇妙な表現に着目してみても面白いのではないかと考えている。言葉の厳密な意味では、不完全な童貞などというものは存在しないはずだが、先ほどの校長のことば同様、そこがあえて強調されるから滑稽なのであろう。



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以上の用例は少なすぎるが、これらを参考にしただけでも、「完全」にわざわざ「無欠」を足した「完全無欠」という四字熟語が、実現不可能であるだけに文学者にとって目指すべき理想ともなりうる反面、多くの場合、滑稽に堕してしまうといった凡庸な結論くらいは導ける。ただ、それを自覚している分かりやすい例ならばまだしも、無自覚に「完全無欠」を要求してしまう言説、「完全無欠」を要求していないようで要求している言説については、もっと分析してみる余地があるかもしれないと考えさせてくれる。



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補遺:最近読んだ話題の評論からも新しい用例を追加しておきたい。



福嶋亮大神話が考える ネットワーク社会の文化論』からの用例である。



《法律家・経済学者のイアン・エアーズは、膨大な情報を持つデータベースを駆使した回帰分析によって、専門家も顔負けの正確な数値を割り出せる例をいくつも挙げている。エアーズによれば、ワインの品質予測から医療の現場に到るまで、過去のデータの堆積によって、専門家のバイアスのかからない、より中立的な解答を導き出すことができるという。領域によっては、専門家以上にデータが正しい答えを知っているという事実は、私たちの意思決定にも大きな影響を及ぼし得る。むろん、それにしたところで完全無欠というわけではないが、データの弾き出す解答を頭ごなしに無視することは、もはや得策ではない。》



福嶋氏は1981年生まれ。宇野常寛ゼロ年代の想像力』や濱野智史アーキテクチャの生態系』と並ぶゼロ年代最後の大物評論家であり、ポスト東浩紀あるいはポスト宮台真司との呼び声も聞こえる気鋭の論者であるらしい。



そのような著者に以下のような分析は極めて不本意だし失礼なのかもしれないとは思いつつ、彼が近ごろには珍しく、割に四字熟語を多用する論者であると言うところに目を止めてみる。たとえば、今回の「完全無欠」もお気に入りのようで、「あとがき」にも次のように出てくる。



《……本書は「神話」という概念をコンパクトなやり方で説明した、より形式的なマニュアル本になるはずだった。その意図が達成されなかったのは、ひとえに著者の力不足によるものである。とはいえ、ここまでの議論の内容を踏まえるならば、完全無欠のモデルを提出すること以上に、物事を継続的に観測していく足場をセットすることのほうが、現代においてはより本質的だとも言えるだろう。……》



高精度のシミュレーションやデータベースによって、今や人間不在のうちに「完全無欠」にも近づけるという何とも恐るべき今日の状況を説明する最初の引用。そして、それとここに引いた最後のあとがきとは、見事なまでに“相互参照的”な関係を取り結んでいるだろう。それは「ここまでの議論を踏まえるならば」というエクスキューズはむろんのこと、「完全無欠」という四字熟語による媒介によって知れる。四字熟語は、このようにも役に立つのである。ともあれ、通常の意味での「筆者の力不足」でないことは言うまでもない。しかるに、ここには中立的な解答に徹しきれなかったという意味だけが残るのであるが、しかしそれについてもすでに十分な自己言及が用意される評論なので、隙がなくて心憎く、洒脱であると感じた。



たしかに、一番のキーワードである「神話」という語をあえて定義しなかった点に批判は集まることが予測されるが、しかし、すでにレヴィ=ストロースボードリヤールといった大御所が存在していたわけだし、「蛸壺化」を回避するためにも、何かを包み込むといったことを意味する、すなわち「生成の磁場」を指示する最重要語についてのみは「あえて定義しない」「定義できるが、しない方がよいこともある」といったスマートな戦略があることを、読者の側でもきちんと許容できる態度が求められるのではないだろうか。



ともあれ、四字熟語の話に戻って、やや妙な角度から、この良著を推薦してみる次第である。