コオウドクマイ




 孤 往 独 邁






周りや他人の動向に左右されず、自らの信じた生き方を突き進むこと。
「孤独」「単孤無頼」「単身孤往」「無縁孤独」ともいう。



 ★



田山花袋『生』に用例がある。



孤往独邁尊い精神をも鼓吹せられたのだ》



田山花袋は『東京の三十年』にも「千朶木山房主人のような孤往独邁の気分に富んだ作者が尠かった」という用例を残しており、この四字熟語の使い手であった。



 ★



正宗白鳥トルストイについて」にも用例がある。



《廿五年前、トルストイが家出して、田舎の停車場で病死した報道が日本に伝わったとき、人生に対する抽象的煩悶に堪えず、救済を求めるために旅に上がったという表面的事実を、日本の文壇人はそのままに信じて、甘ったれた感動を起こしたりしたのだが、実際は細君を怖がって逃げたのであった。人生救済の本家のように世界の識者に信頼されていたトルストイが、山の神を恐れ、世を恐れ、おどおどと家を抜け出て、孤往独遇の旅に出て、ついに野垂れ死にした径路を日記で熟読すると、悲愴でもあり滑稽でもあり、人生の真相を鏡にかけてみるごとくである。ああ、我らが敬愛するトルストイ翁!》



小林秀雄との有名な論争のきっかけとなった文章である。「偉大英雄に、われら月並みなる人間の顔を見附けて喜ぶ趣味が僕にはわからない。リアリズムの仮面を被った感傷癖に過ぎないのである。」という小林の批判はもっともすぎるくらいもっともなことだが、それでは白鳥の感嘆は説明できないところがなかなか難しい。抽象的でもありながら、ひどく具体的でもあったトルストイの晩年を解く鍵は、案外「孤往独邁」という四字熟語の中にあるのかもしれない。



というのは、白鳥が問題にした男にとっての女というテーマも、小林が拘泥する思想と実生活の問題にしても、結局切り離して理解するしかないという「孤往独邁」に辿り着くはずだからだ。小説家はそれを抽象化したがらず、批評家は抽象化したがるというふうに切り分けるのはさすがに粗野に過ぎようが、「孤往独邁」という四字熟語を用いたところに小林が見落とした白鳥のこだわりが透けて見えることはたしかだろう。



ということで、もう少し踏み込んでおくと、この「孤往独邁」という四字熟語を用いるとき、書き手の脳裏にはおそらく「無縁孤獨」あるいは「鰥寡孤獨」という四字熟語が浮かんでいたのではないか? と私は想像を逞しくしてみる。「鰥寡孤獨」という四字熟語は、妻のない男、夫のない女、父のいないみなし子、よるべのない老人などを意味する。縁故がない、つまり今日でいうところの「おひとりさま」なのであるが、たしかに白鳥はこの「おひとりさま」問題に何らかの文脈でぶつかっていたはずなのだが、小林はそこを探りそこねたと見なければならない。



 ★



率直に白状すると、「孤往独邁」という四字熟語について、寡聞な私は上述以上に詳しく語れない。思想と実生活論争についてはなおのこと準備が不足している。前者についてわずかに知っていることと言えば、せいぜい「孤独」の語源の一つであるということや、「獨邁」という語が陶淵明に由来すること、「孤往」という語を森鷗外が『伊沢蘭軒』で用いているということぐらいなのであるが、これを四字熟語のかたちにして最初に用いたのがどこの誰で、それがどのように生成し展開してきたのか云々について、語誌として不明なことが多い。事実、四字熟語としてはどの辞書にも登録されていないようである。しかしながら、花袋や白鳥が使っていることは確実なので、その時代にもっと用例があってよいような気はしている。これより先は、頭を垂れて博覧強記の読者に教えを乞うほかにない。



ただ、花袋と白鳥を媒介するのも面白いだろうという予感は抱いている。白鳥が言っていることは、実はある意味そのまま花袋が『生』で格闘している問題と重なるのだ、と。これは小林秀雄はもちろんのこと、おそらくまだ誰も示唆していない課題であると思う。



もちろん、小林秀雄も頼りにならなければ、辞書も信用できないなどと、大上段を振りかざすつもりは毛頭ないし、そのような資格が私ごときには全くないことぐらいはよく承知しているつもりだ。だから、ここでは年来の疑問をぶつけてみて、あわよくば読者諸賢に教えを乞えないかという下心があるばかりで、せいぜい、四字熟語というものが時に意外な手がかりを与えてくれる! という感動をぼそぼそっと呟いてみたかったという、ただそれだけの下劣な動機に発する記事に過ぎないわけだが、いろいろの霊感・予覚がはたらくのである。