ゼンゴフカク




 前 後 不 覚






正体がはっきりしないこと。意識が朦朧として、時間の後先が分からなくなること。泥酔したり、気を失ったりする状態。「意識朦朧」「人事不省」「茫然自失」ともいう。



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「前後不覚」というと、どうしても酒に飲まれた酔っぱらいのイメージが強いが、それ以外の用例はないものなのだろうか。



尾崎紅葉金色夜叉』には、次の用例がある。
《凡そ高利の術たるや、渇者に水を売るなり。渇の甚く堪へ難き者に至りては、決してその肉を割きてこれを換ふるを辞せざるべし。この急に乗じてこれを売る、一杯の水もその値玉漿を盛るに異る無し。故に前後不覚に渇する者能くこれを買ふべし、その渇の癒るに及びては、玉漿なりとして喜び吃せしものは、素と下水の上澄に過ぎざるを悟りて、痛恨、痛悔すといへども、彼は約の如く下水の倍量をばその鮮血に搾りその活肉に割きて以て返さざるべからず。》
喉の渇いた者は水を前に冷静な判断を下すことができないということを例に高利貸しの仕組みを平易に説いている。



吉行エイスケ「大阪万華鏡」にも、面白い用例が見える。
《反蒋介石派の激化と、東支鉄にからんだ露支間の葛藤、南京政府の幣制の改革にたいする商人の思惑は、対支商談におけるワシントン政府の経済政策が、帝国主義戦争の一つの徴として、ワシントン当局者のからくりによって時局が平穏のうちに解決されると、南京政府中央銀行を設け、上海造幣厰を開いた。めずらしく支那内地に戦争がなかったので銀需要の思惑は、これらの悪材料のために前後不覚となり惨落となった。》
ある種の経済情勢を説明するのに「前後不覚」を用いるのが、紅葉だけではないというところが、偶然の一致にしても興味深い。



坂口安吾「手紙雑談」の用例も興味深い。
《私は友達と喧嘩をして、むかつ腹を立てながらひどく長い手紙を書いた覚えが七八回ある。口惜しさに前後不覚の状態だから文面は怒りの流れるにまかせ、これまた混沌として何が何やら私が何に腹を立ててゐるのやら手紙を貰つた友達の方でとんと見当がつかなかつたといふ話である。》
安吾の用例も酒がらみが多いのだが、ここでは怒りによって「前後不覚」に陥っている。



竹山道雄ビルマの竪琴」の用例も見てみよう。
《はっとしてうたたねから醒めて、私は前後不覚にそばにおいてあった竪琴をつかみました。》
寝ても覚めても音楽に取り組む様子を「前後不覚」と評している。



太宰治「弱者の糧」の用例も必見だ。
《五年前、千葉県船橋の映画館で「新佐渡情話」という時代劇を見たが、ひどく泣いた。翌る朝、目がさめて、その映画を思い出したら、嗚咽が出た。黒川弥太郎、酒井米子、花井蘭子などの芝居であった。翌る朝、思い出して、また泣いたというのは、流石に、この映画一つだけである。どうせ、批評家に言わせると、大愚作なのだろうが、私は前後不覚に泣いたのである。あれは、よかった。なんという監督の作品だか、一切わからないけれども、あの作品の監督には、今でもお礼を言いたい気持がある。》
映画『新佐渡情話』(日活、1936年)の原作は竹田敏彦、監督は清瀬英次郎である。太宰は監督に感謝しているが、直木賞候補にもなったことがある竹田を知らなかったのだろうか。



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円満字二郎太宰治の四字熟語辞典』(三省堂)という著書が刊行されたので、さっそく購ってきた。一読三嘆、斬新な着想になる好企画だと膝を打った。だからここでも讃辞を惜しむつもりは毛頭ないのであるが、一点だけ水を差すことを許してほしい。
それは太宰治「ろまん燈籠」を「アルコールの影は、一つもない」例外として紹介するところに少しだけ違和感を覚えたということである。そして、四字熟語に係るこうした存疑を私は隠すことができない。



映画を汁粉に喩える「弱者の糧」の例から知れるように、太宰の他の用例にはノンアルコールでも「前後不覚」はあるし、また尾崎紅葉吉行エイスケ坂口安吾竹山道雄の例から分かるように、太宰以外の作家の例でも必ずしも酒がらみの例ばかりでもない。そういう意見を持つ者なので、あえてここにいくつか証拠を並べてみたのである。



それにつけても、私自身、酒以外にも酔えるものを探し出して「前後不覚」という四字熟語を真に自在に操れる日はいつ来るのだろうか。