シチドウガラン




 七 堂 伽 藍






寺院の主要な七つの建物。または七つの堂を揃える大きな寺院のこと。
「七堂」は、宗派によって異なるが、古くは『聖徳太子伝古今目録抄』に金堂、塔、講堂、鐘楼、経蔵、僧坊、食堂の七つとあり、禅宗では山門・仏殿・法堂・庫裡・僧堂・浴室・東司を指すことが多い。「伽藍」はサンスクリット語の音訳「僧伽藍摩」「僧伽藍」を縮めたもので、寺の建物、寺院のことを指す。
「堂宇伽藍」「塔堂伽藍」「堂塔伽藍」とも言う。



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かつての文芸では「七堂伽藍」と言うのが立派な寺院の代名詞として機能するのが半ば約束化していたわけだが、立派な寺院も長続きしないとか、立派な寺院は必要ないといったニュアンスの用例が少なくないように思う。



泉鏡花高野聖」に用例がある。



《ちょうど私が修行に出るのを止して孤家に引返して、婦人と一所に生涯を送ろうと思っていたところで。
 実を申すとここへ来る途中でもその事ばかり考える、蛇の橋も幸になし、蛭の林もなかったが、道が難渋なにつけても、汗が流れて心持が悪いにつけても、今更行脚もつまらない。紫の袈裟をかけて、七堂伽藍に住んだところで何ほどのこともあるまい、活仏様じゃというて、わあわあ拝まれれば人いきれで胸が悪くなるばかりか。》



泉鏡花は「春昼」にも用例がある。



《「随分御参詣はありますか。」
 先ず差当り言うことはこれであった。
 出家は頷くようにして、机の前に座を斜めに整然と坐り、
「さようでございます。御繁昌と申したいでありますが、当節は余りござりません。以前は、荘厳美麗結構なものでありましたそうで。
 貴下、今お通りになりましてございましょう。此処からも見えます。この山の裾へかけまして、ずッとあの菜種畠の辺、七堂伽藍建連なっておりましたそうで。書物にも見えますが、三浦郡の久能谷では、この岩殿寺が、土地の草分と申しまする。
 坂東第二番の巡拝所、名高い霊場でございますが、唯今ではとんとその旧跡とでも申すようになりました。
 妙なもので、かえって遠国の衆の、参詣が多うございます。近くは上総下総、遠い処は九州西国あたりから、聞伝えて巡礼なさるのがあります処、この方たちが、当地へござって、この近辺で聞かれますると、つい知らぬものが多くて、大きに迷うなぞと言う、お話しを聞くでございますよ。」》



泉鏡花「逗子より」にも「いにしへは七堂伽藍、雲に聳え候が、今は唯麓の小家二三のみ。」という用例が見えるが、私はこういう鏡花のノスタルジアが好きである。



南方熊楠「神社合祀に関する意見」にも用例がある。
紀州西牟婁郡滝尻王子社は、清和帝熊野詣りの御旧蹟にて、奥州の秀衡建立の七堂伽藍あり。金をもって装飾せしが天正兵火に亡失さる。某の木の某の方角に黄金を埋めたりという歌を伝う。数年前その所を考え出し、夜中大なる金塊を掘り得て逐電せる者ありという。かかる有実の伝説は、神社およびその近地にもっとも多し。素人には知れぬながら、およそ深き土中より炭一片を得るが考古学上非常の大獲物であるなり。その他にも比類のこと多し。しかるに何の心得なき姦民やエセ神職の私利のため神林は伐られ、社地は勝手に掘られ、古塚は発掘され、取る物さえ取れば跡は全く壊りおわるより、国宝ともなるべく、学者の研究を要する古物珍品不断失われ、たまたまその道の人の手に入るも出所が知れぬゆえ、学術上の研究にさしたる功なきこと多し。合祀のためかかる嘆かわしきこと多く行なわるるは、前日増田于信氏が史蹟保存会で演べたりと承る。》
せっかくの「七堂伽藍」は、遺跡となっても価値があるが、下手をすると無価値になる。



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佐々木味津三旗本退屈男』に用例がある。



《あちらへのそり、こちらへのそり、ウチワ太鼓、踊り狂ういやちこき善男善女の間を縫いながら、逃げのびた女やいずこぞとしきりに行方を求めました。
 だが、いないのです。本堂からお祖師堂。お祖師堂から参籠所、参籠所から位牌堂、位牌堂から経堂中堂、つづいて西谷の檀林、そこから北へ芬陀梨峯へ飛んで奥の院奥の院から御供寮、それから大神宮に東照宮三光堂と、七堂伽藍支院諸堂残らずを隈なく尋ねたが似通った年頃の詣で女はおびただしくさ迷っていても、さき程のあの怪しき女程のウブ毛も悩ましい逸品は、ひとりもいないのです。》



さすがのリズム。「七堂伽藍」に「支院諸堂」を後続させたのが効果的な表現で、「残らず隈なく」探索したことが伝わってくる。