グチムチ




 愚 痴 無 知






愚かで知恵が浅いこと。仏教の三毒の一。
「迂愚痴鈍」「頑愚痴鈍」「愚痴闇鈍」「愚痴暗蔽」「愚痴鈍根」「愚痴鈍拙」「愚痴蒙昧」等とも言う。



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今日あまり使われないが、古い言葉である。仏典に用例が多い。
『仏説大方広十輪経』に用例が見える。
《犯不犯、軽重を知らず、微細罪懺悔すべきを知らず、愚痴無智にして善智識に近からず、深義のこれ善なるか善にあらざるか諮問する能わず、かくのごとき等の相、まさに唖羊僧たるべし》
空海『秘蔵宝鑰』にも、用例がある。
《異生羝羊心とは何ぞ。凡夫、酔狂して善悪を弁えず。愚童、癡暗にして因果を信じぜざるの名なり。凡夫、種々の業を作って種々の果を感ず。身相万種にして生ず。故に異生と名づく。愚癡無智なること、彼の羝羊の劣弱なるに均し。》
萩原雲來訳注「法句經」には、こうある。
愚癡無智の凡夫は己に對して仇敵の如くふるまひ、惡業を作して苦痛の果を得。》
ちなみに『日葡辞書』にも「Guchimuchi」と掲出されている。



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二葉亭四迷浮雲」に用例がある。
《俗務をおッつくねて、課長の顔色を承けて、強て笑ッたり諛言を呈したり、四ン這に這廻わッたり、乞食にも劣る真似をして漸くの事で三十五円の慈恵金に有附いた……それが何処が栄誉になる。頼まれても文三にはそんな卑屈な真似は出来ぬ。それを昇は、お政如き愚痴無知の婦人に持長じられると云ッて、我程働き者はないと自惚てしまい、しかも廉潔な心から文三が手を下げて頼まぬと云えば、嫉み妬みから負惜しみをすると臆測を逞うして、人も有ろうにお勢の前で、「痩我慢なら大抵にしろ」》



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幸田露伴平将門」にも用例がある。
《酒を飲んで酒に飲まれるといふことを何処かの小父さんに教へられたことがあるが、書を読んで書に読まれるなどは、酒に飲まれたよりも詰らない話だ。人を飲むほどの酒はイヤにアルコホルの強い奴で、人を読むほどの書も性がよろしくないのだらう。そんなものを書いて貰はなくてもよいから、そんなものを読んでやらなくてもよい理屈で、「一枚ぬげば肩がはら無い」世をあつさりと春風の中で遊んで暮らせるものを、下らない文字といふものに交渉をもつて、書いたり読んだり読ませたり、挙句の果には読まれたりして、それが人文進歩の道程の、何のとは、はてあり難いことではあるが、どうも大抵の書は読まぬがよい、大抵の文は書かぬがよい。酒をつくらず酒飲まずなら、「下戸やすらかに睡る春の夜」で、天下太平、愚痴無智の尼入道となつて、あかつきのむく起きに南無阿弥陀仏でも吐出した方が洒落てゐるらしい。》
酒や書物を愛してやまぬ私には、耳が痛いお説教である。なお、このくだりは、蕪村を踏まえていたのかもしれない。



  愚痴無智のあまざけ造る松ケ岡  与謝蕪村



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吉川英治親鸞』の次の序文にいたく共感した覚えがある。
《私が初めて小説を書いた最初の一作が親鸞だった。青年の頃から自分の思索にはおぼろげながら親鸞がすでにあった。親鸞の教義を味解していたというよりも、親鸞自身が告白している、死ぬまで愚痴鈍根をたちきれない人間としての彼が直ちに好きだったのである》



伊藤整「鳴海仙吉」の用例は、なぜか好きでない。



《私は先程、日本の知識階級人は難解かいじゅうな表現なり言葉なりを愛する性癖を持っている、と書いたように思うが、それは、実は私のみのことであった。私はその哲学者の書くものを理解できないということは、知識階級人としての資格が自分に無いのではないかと怖れるのあまり、それを理解し、理解するが故に愛好しているような顔をしている。理解していないけれども理解しているような顔をし、かつ甚だ興味を持っているような様子をするという意味で、私はこの人のかいじゅう難解な文章を愛好しようと思っている。そのことをつい私は誤って、日本の知識階級人は曖昧難解なものを愛好すると言ってしまったのであった。
 これは大変な失礼なことであった。私のような迂愚痴鈍な資質をもって、真の日本の知識階級人を自分と同様などと考えることは、これは大変な不遜傲慢な、身の程知らずなことであろう。》



好きでないのは、謙虚のようでいて、謙虚でないからだろう。知識人の自意識が鼻につく。もちろん、個人的な好悪とは別に、この書き手ならではの隙のない剃刀のように鋭い自己言及に一種の分析的な新しさを感じてはいるということは、誤解のないように付け加えておこう。