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 身 七 分 動






心を十分に動かして、身を七分に動かせという教え。演劇用語。
「動七分身」「動十分心、動七分身」とも言う。



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世阿弥「花鏡」が出典である。
《たとひ急なる能を、御意によりて仕るとも、心中に控へて、さのみにもまで、身七分動を心得て、なほなほ奥を残すやうにすべし。》
今となっては「秘すれば花なり」(「風姿花伝」)ばかりが知られる世阿弥であるが、「花鏡」はやはり、まず演劇論として読まれるのが筋だろう。むやみに日本文化の総体を代表させたり、能という限られた特殊な世界にだけ鎖したりするのではなく、まずは演劇論として虚心に理解するのが先決である。
今日の役者の演技を見ていると、やたらと大袈裟で、無駄な動きが多く、失望させられることが少なくない。そんなとき、この「動きは控えめにせよ、あまり激しく動くな」(心>身)という意味の四字熟語「身七分動」がもっともっとメジャーになってくれればと砂を噛む。なぜ、これほどの語がほとんど世には知られていないのか。私などは首をかしげざるを得ない。



「身七分動」とは、正確には「動十分心、動七分身」(十分に心を動かし、七分に身を動かせ)と言う。世阿弥はこのことを次のように説いている。
《「心を十分に動かして、身を七分に動かせ」とは、習ふところの手をさし、足を動かすこと、師の教へのままに動かして、その分をよくよく為窮めて後、さし引く手をちちと、心ほどには動かさで、心よりうちに控ふるなり。これは、必ず舞・はたらきにかぎるべからず。立ちふるまふ身づかひまでも、心よりは身を惜しみて立ちはたらけば、身は体になり、心は用になりて、面白き感あるべし。》
習練の時には師匠は、弟子の身も心も十分に鍛え上げる。しかし、上達し、安定した芸境に達したとき、はじめて動作を控えめに演じてゆけば、自然に、身七分動の芸ができるというのだ。



さて、ここでようやく「秘すれば花なり」のくだりを思い出す。同時に「大用」ということが言われていたということも忘れずに思い出す。それは「大きな働き」があるからこそ秘するといった意味だ。これは諸芸道に言えることと一般論になっているが、「花鏡」の「身七分動」の方がもっと演劇に即した具体的な立場からの助言になっており、併せてはじめて、ストンと胸に落つ。



井上さた*1は『佐多女芸談』において「動かんやうにして舞ふ。つまり表現を内省して、出来るだけ描写を要約するのどす。ぢつとしてゐて舞ふ。」と言った。



郡司正勝は名著『おどりの美学』において、上記を引きつつ「日本の舞踊には動かぬことを理想とする観念がある。」と喝破した。



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ここまで理解した上で、演劇や舞踊以外の諸事に当てはめてみよう。芸事であれ、ビジネスであれ、絶大な効果を体感できることだろう。心は100%、しかし動きは70%に抑えて、残りの30%を余情、余韻に当てる。ああ、なんと心憎いわざであるか。これを真のゆとりと言わずして何と言おう。
腹八分目だけでなく、身七分動ということも、万民ぜひとも心得て置きたい教訓であると私は信ずる。





*1:上方舞井上流