リロセイゼン




 理 路 整 然






文章や議論などにおいて、論理や筋道が整っていること。
かつては「理路井然」と表記することも多かった。
「順理整章」「条理井然」ともいう。対義語は「支離滅裂」。



 ★



菊池寛「仇討禁止令」に用例がある。



《恒太郎は、成田の怒声にも屈することなく、温かな平生通りの声で、
「成田殿のお言葉ではござりまするが、徳川御宗家におかせられましても、いまだかつて錦旗に対しお手向いしたことは一度もござりませぬ。まして、御本家水戸殿においては、義公様以来、夙に尊王のお志深く、烈公様にも、いろいろ王事に尽されもしたことは、世間周知のことでござります。しかるに、水戸殿とは同系同枝とも申すべき当家が、かかる大切の時に順逆の分を誤り、朝敵になりますことは、嘆かわしいことではないかと存じまする」
 恒太郎の反駁は、理路整然としていたが、しかし興奮している頼母には、受け入れらるべくもなかった。
「何が順逆じゃ。そういう言い分は、薩長土などが私利を計るときに使う言葉じゃ。徳川将軍家より、四国の探題として大録を頂いている当藩が、将軍家が危急の場合に一働きしないで、何とするか。もはや問答無益じゃ。この頼母の申すことに御同意の方々は、両手を挙げて下され。よろしいか、両手をお挙げ下さるのじゃ」
 時の勢いか、頼母の激しい力に圧せられたのか、座中八、九分までは、両手を挙げてしまった。》



「理路整然」の方がよいように思うのだが、不合理な「支離滅裂」の方が支持されたり選択されたりすることは少なくない。それは語り手が地の文で指摘するように、時の勢いなのかもしれないし、激しい力によるものなのかもしれないが、不思議である。漱石草枕』の画工でなくとも「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」という心境は誰の身にも覚えがあるだろう。



 ★



小酒井不木『心理試験』序にも次のような用例がある。



《もし探偵小説家が、毫厘のスキもないようにと、それのみに力を入れたならば、それがために却って芸術的価値の薄いものを作り上げるようになりはしないであろうか。文芸は虚実の間を行くといった近松翁の言葉は、探偵小説にも応用してかまわぬではあるまいか。もとより、理路井然として、少しの不自然もないように出来ればそれに越したことはないけれど、作品の芸術的効果を無視してまで、「理」に忠実なろうとすることは、私の取らない所である。》



本格か、変格か。ミステリをめぐる批評で絶えることなく浮上する言説であるが、小酒井不木によれば、それが文学であり芸術であるとするなら、単に「理路井然」というわけにもいかないらしい。



 ★



岡本かの子「狂童女の恋」にも用例がある。



《西原氏の顔へ向けた少女の凝視があまり続くので、母親が口を切つた。
――英子、折かく先生にお目にかゝつたのですから、何かお話をなさい。
 すると少女は舞台の人形振りのやうにこつんと一つうなづいて、大人のやうに、ゆつくり話し出した。
――あの先生。先生はいつ、お嫁さんをお貰ひになるの。先生のお嫁さんになるには、こどもぢや、いけなくつて。あたし、先生のお嫁さんになりたいんだけれども。けれども、こどものお嫁さんつてないわね。こどものお嫁さん貰ふとお巡査さんに叱られるの?
 西原氏は驚いた。こんな理路整然とした恋ごゝろの表現が氣狂ひの口から出るものなのか。もちろん少女のことなので、いふ言葉はあどけない。しかし、このあどけないものに、もつと大人の言葉を置き換へたら情緒を運ぶ順序においては、もうそれは少女のものではない。立派に成熟した一人前の男に対する口説き方だ。西原氏は怖ろしくなつて、少女を思ひ切つて睨み据ゑた。そして腹のなかでかういひ据ゑた――お前にさういはせるのは何者だ、どの魄だ。》



「西原氏」が「きちがひの女の兒に惚れられた話」である。“狂人”なのに「理路整然」としていることへの驚きが表白されているわけだが、実は「理路整然」とし過ぎているから“狂人”というレッテルを貼られるという側面もあるだろう。同様のことは“子供”についても言える。いずれにせよ、「理路整然」はやはり疎外されると言わなければならない。



 ★



中野重治『むらぎも』にも用例があるので、引いてみよう。



《「少しごちそうが食いたいナ……」という考えが浮かんでくる。佐伯の「おばさん」を息子のとこへ返したあと、じっさい目に見えて食いものがまずくなっていた。実直一方の今のおばさんは、一心にやってくれるが芸術的でない。飯台に並んだのを見ると理路整然としている。そしてひと目で腹がたつ。しかし咎めるわけには行かない……》



さっきまで絵画の話だったが、ここで急に食事の話に切り替わる。「花より団子」という諺が思わず脳裏を掠めないわけでもないが、ここでの「理路整然」の使用例が実にユニークである。本来、食事を批評する言葉ではないし、「芸術」と対義語になっている点でも個性的である。曖昧な表現であるはずなのに、なぜか納得させられてしまう。どのような料理なのか、大方、想像できるのである。真面目なおばさんがまごころ込めて一生懸命作ってくれた料理なのだろうが、そういう書き方をしたのでは批判できない。そこでやむを得ず「理路整然」という四字熟語が出てきたのだろう。



中野重治プロレタリア文学の大家であり、彼の作中では、いくら芸術的な高尚な人間だからといって、一生懸命作ってくれた料理を平凡だからといって批判することは許されていない。その意味で、中野の文章は他の誰よりも地の文の統制がよく効いていると思う。



「腹がたつ」けれども「咎めるわけには行かない」というところまで読むと、なるほど「理路整然」という言葉の本来持つ語感に忠実な用例であると知れる。「理路整然」という四字熟語は、ひょっとすると「咎めるわけには行かない」けれども、何か腑に落ちない感情を作り出すもの一般に適用可能というか、向け得る語として可能性をはらんでいるのかもしれない。



 ★



三島由紀夫潮騒』にも用例がある。



《もちろんこれほど理路井然とではなく、前後したとぎれとぎれの話し方ではあったが(下略)》



最近では、地の文における翻訳機能という問題が専門家の間では注目されるようになってきた。要するに、どんな小説にも語り手がいて、その語り手が語り手の趣向に応じて、出来事や登場人物を語りなおすというわけである。三島由紀夫という人は、良くも悪くも「理路整然」という四字熟語が似合う作家だが、この“翻訳”の仕方からもその一端はうかがえよう。