シンキイッテン




 心 機 一 転






何かをきっかけとして、気持ちをすっかり入れ替えること。
明るい気持ちに切り替えて、新たにやり直すこと。
「飲灰洗胃」「改過自新」「緊褌一番」「呑刀刮脹」ともいう。



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夏目漱石『それから』に用例がある。



《三四年前の自分になつて、今の自分を批判して見れば、自分は、堕落してゐるかも知れない。けれども今の自分から三四年前の自分を回顧して見ると、慥かに、自己の道念を誇張して、得意に使ひ回してゐた。渡金を金に通用させ様とする切ない工面より、真鍮を真鍮で通して、真鍮相当の侮蔑を我慢する方が楽である。と今は考へてゐる。
 代助が真鍮を以て甘んずる様になつたのは、不意に大きな狂瀾に捲き込まれて、驚ろきの余り、心機一転の結果を来たしたといふ様な、小説じみた歴史を有つてゐる為ではない。全く彼れ自身に特有な思索と観察の力によつて、次第々々に渡金を自分で剥がして来たに過ぎない。代助は此渡金の大半をもつて、親爺が捺摺り付けたものと信じてゐる。其時分は親爺が金に見えた。多くの先輩が金に見えた。相当の教育を受けたものは、みな金に見えた。だから自分の渡金が辛かつた。早く金になりたいと焦つて見た。所が、他のものゝ地金へ、自分の眼光がぢかに打つかる様になつて以後は、それが急に馬鹿な尽力の様に思はれ出した。》



〈驚きのあまり心機一転〉という言い方には実は幸田露伴の『いさなとり』の中に先例があって、実際「狼狽愕く其中に心機一転」といったあたりを踏まえている可能性はあるのかもしれませんが、しかし、ここでの要点はむしろそうした驚きといった大きな感情の波を伴う「心機一転」を、あるいは小説じみたドラマティックな展開を峻拒する主体にあり、そこにまた漱石の独自性もあるはずと思うのである。メッキを剥いで真鍮は真鍮で行こうという主張は、漱石の文明論にも通ずる反近代の思想がありありとうかがえる。



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源氏鶏太「鬼の流行」というエッセイの中にも用例が見える。



《私が「幽霊になった男」という短篇小説を書いたのは、昭和四十五年であった。どういう動機でそういう小説を書く気持になったのかはよく記憶していない。恐らく今まで通りのユウモア小説を書いていたのでは、もう先が見えているようなものだし、ここらで心機一転をと狙ったのであろう。しかし、殆んど反響がなかった。》



源氏鶏太は突然、作風を転じる。これまでのユーモア小説から一転、妖怪変化の出てくる小説群を書くようになるが、それを「心機一転をと狙ったのであろう」とまるで他人事のように書いているところは源氏らしい。最新の研究によれば、源氏鶏太は初期のころ、詩と民謠の世界から散文へと飛躍したということが分かるが、ここでもう一度転機が訪れたと見るか、初期に回帰したと見るかは、容易に推断できないところがある。



ただ、一つはっきり言えることは、富山弁ではユーモア小説は書きにくいと言っていたところからして、源氏にとってのユーモア小説は、標準語=ペンネーム、つまりメッキで書くものだったということである。その意味でも、また反響を求めていないことからも、源氏が妖怪変化に託したものは、単なる妖怪変化ブームとは一線を画す何かであったはずだということができる。その真鍮的「何か」を解き明かすことが、これからは大切だろうと考える。