イッシンフラン




 一 心 不 乱






わきめもふらず、ただ一つのことに心を集中し打ち込むこと。
「一意専心」「一生懸命」「一所懸命」「一心一意」「一心一向」「精神一到」「無我夢中」「無二無三」ともいう。



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菊池寛恩讐の彼方に」に用例がある。



《が、市九郎は一心不乱に槌を振った。槌を振っていさえすれば、彼の心には何の雑念も起こらなかった。人を殺した悔恨も、そこには無かった。極楽に生れようという、欣求もなかった。ただそこに、晴々した精進の心があるばかりであった。彼は出家して以来、夜ごとの寝覚めに、身を苦しめた自分の悪業の記憶が、日に薄らいでいくのを感じた。彼はますます勇猛の心を振い起して、ひたすら専念に槌を振った。》



菊池寛の文章が大衆に受け入れられたのは、ハナシが面白かったことはもちろん、文章の書き方にも秘密がある。「一心不乱」という四字熟語を使用したら、すぐに「何の雑念も起こらなかった」「ひたすら専念に」というふうに、その語を知らない読者のために分かりやすく言い換えてあげるのだ。そして、それは読みどころでしっかり立ち止まらせるという読者サービスでもあっただろう。



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岡本かの子「金魚撩乱」にも用例がある。



《復一の神経衰弱が嵩じて、すこし、おかしくなって来たという噂が高まった。事実、しんしんと更けた深夜の研究室にただ一人残って標品を作っている復一の姿は物凄かった。辺りが森閑と暗い研究室の中で復一は自分のテーブルの上にだけ電燈を点けて次から次へと金魚を縦に割き、輪切にし、切り刻んで取り出した臓器を一面に撒乱させ、じっと拡大鏡で覗いたり、ピンセットでいじり廻したりして深夜に至るも、夜を忘れた一心不乱の態度が、何か夜の猛禽獣が餌を予想外にたくさん見付け、喰べるのも忘れて、しばらく弄ぶ恰好に似ていた。切られた金魚の首は電燈の光に明るく透けてルビーのように光る目を見開き、口を思い出したように時々開閉していた。》



研究者の集中力を客観的に覗くと、このように見えるのだろう。「夜の猛禽獣」に喩えたのも効果的である。



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京極夏彦巷説百物語』にも用例がある。



《人形には生はない。しかし精はある。
 人形造りが造り籠めるものか、人形遣いが注ぎ込むものか、依り憑くものか湧き出ずるものかは知らないが、慥かに精はある。だから人形を何年も扱っていると、これが動かぬ方がどうかしているというような、そんな気がして来るものである。
 例えば。
 一心不乱に繰っていると、やがて己が人形を動かしているのか、人形が己を動かしているのか解らなくなる瞬間が訪れる。そしてそのうち、どちらでも良いような境地に行き着く。
 そこまで行かねば、本物ではない。》



「一心不乱」という用例ばかりを集めていると、集中力の選手権大会を実施しているような錯覚にとらわれるが、過度に集中を深めると、特別な境地に達するようである。



この場合は、人間と人形の境界が融け出しはじめる。たしかに、人形をずっと見ているだけでも吸い込まれそうになった経験は誰にでもあるだろう。さらに、そこから踏み込んで「どちらでも良い」(原文は傍点付き)という境地に到達させるものが、まさに「一心不乱」という心的態度なのであろう。



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「一心不乱」はもともと「一心不亂に念佛せよ」(『阿彌陀經』他)のように用いられた仏教の用語だったが、宗教にせよ、芸術にせよ、その奥義は、この心的態度に存するのかもしれないと思わせるものがある。