キドアイラク




 喜 怒 哀 楽






人間の持つさまざまな感情の総称。喜び・怒り・哀しみ・楽しみ。
「機嫌気褄」「嬉笑怒罵」「喜怒哀愁」「悲喜憂苦」とも言える。



孔伋(子思)?『中庸』の次の一節が出典である。
喜怒哀楽の未だ発せざる、之を中と謂ふ。発して皆節に中る、之を和と謂ふ。中なるものは、天下の大本なり。和なる者は、天下の達道なり。 中和致して、天地位し、万物育成す。》
(喜怒哀樂之未發、謂之中。發而皆中節、謂之和。中也者、天下之大本也。和也者、天下之達道也。致中和、天地位焉、萬物育焉。)



 ★



さて、「喜怒哀楽」の用例を調べてみると、それを肯定的に用いるか、否定的に用いるかで、書き手/エクリチュールの特色が表れるように思われる。いま不用意に「否定的」と言ったが、それは無表情をよしとする態度、「中庸」でいうところの「中」の謂である。対して「肯定的」と言ったのは、豊かな表情をよしとする嗜好、すなわち「中庸」でいうところの「和」の謂である。書き手や書き方のあれこれをこうした観点から観察してみると、なかなか興味深いものがある。



 ★



森鷗外「雁」は、「喜怒哀楽」抑圧型である。
《暫く話しているうちに、お玉はふと調子附いて長い話をする。それが大抵これまで父親と二人で暮していた、何年かの間に閲して来た、小さい喜怒哀楽に過ぎない。末造はその話の内容を聴くよりは、籠に飼ってある鈴虫の鳴くのをでも聞くように、可哀らしい囀の声を聞いて、覚えず微笑む。その時お玉はふいと自分の饒舌っているのに気が附いて、顔を赤くして、急に話を端折って、元の詞数の少い対話に戻ってしまう。その総ての言語挙動が、いかにも無邪気で、或る向きには頗る鋭利な観察をすることに慣れている末造の目で見れば、澄み切った水盤の水を見るように、隅々まで隠れる所もなく見渡すことが出来る。》



井上靖「洪水」も、抑圧型である。
《女は生まれつき喜怒哀楽を訴える表情の動きを持っていなかった》



夏目漱石「写生文」もまた、抑圧型と言えるだろう*1
《写生文家の描写は多くの場合において客観的である。大人は小児を理解する。しかし全然小児になりすます訳には行かぬ。小児の喜怒哀楽を写す場合には勢客観的でなければならぬ。》



こんな俳句もある。



   桔梗や喜怒哀楽の少き日  植松紫魚



この四字熟語は批評によく使われるけれども、陳腐であることが多い。批評ですらそうなのだから、実際に句に詠み込むことの難しさは想像を絶する。だからこそ、心の嵐の収まる刹那の静けさの中に桔梗を正眼に据えて見事に定着させたこの句の世界には嘆声を漏らさざるを得ない。「桔梗」(きちかう)という季語も絶妙で、他の花では上手くいかないだろう。



 ★



菊池寛恩讐の彼方に」は、あるいは「喜怒哀楽」肯定型(超越志向)かもしれぬ*2
《そのしわがれた悲壮な声が、水を浴びせるように実之助に徹してきた。深夜、人去り、草木眠っている中に、ただ暗中に端座して鉄槌を振っている了海の姿が、墨のごとき闇にあってなお、実之助の心眼に、ありありとして映ってきた。それは、もはや人間の心ではなかった。喜怒哀楽の情の上にあって、ただ鉄槌を振るっている勇猛精進の菩薩心であった。実之助は、握りしめた太刀の柄が、いつの間にか緩んでいるのを覚えた。彼はふと、われに返った。すでに仏心を得て、衆生のために、砕身の苦を嘗めている高徳の聖に対し、深夜の闇に乗じて、ひはぎのごとく、獣のごとく、瞋恚の剣を抜きそばめている自分を顧ると、彼は強い戦慄が身体を伝うて流れるのを感じた。》



坂口安吾「現代とは?」は、明らかに「喜怒哀楽」肯定型(現実志向)に分類される*3
《芸術というものは、その実際のハタラキは芸という魔法的なものではなくて、生活でなければならぬ。それが現実の喜怒哀楽にまことのイノチをこめてはたらくところに芸術の生命があるのであり、だから、その在り方は芸術というよりも生活的なものだ。》



 ★



上村松園「「草紙洗」を描いて」は、面の無表情/豊かな感情といった両面価値を見事に剔抉している。
《面は喜怒哀楽を越えた無表情なものですが、それがもし名匠の手に成ったものであり、それを着けている人が名人であったら、面は立派に喜怒哀楽の情を表わします。わたくしは曽て金剛巌師の“草紙洗”を見まして、ふかくその至妙の芸術に感動いたしたものですから、こんど、それを描いてみたのでした。》



 ★



如上を踏まえて、答えなき問いを自らに問うてみる。
喜怒哀楽は抑えた方がよいのか、それとも爆発させた方がよいのか(中か和か)。



清原枝賢・清原国賢『足利本論語抄』の「喜怒哀楽の有るをば和と云ふ也」という言葉は儒学の教えをシンプルに汲み取った日本の例文だが、私個人としてはこの“和”をより好みとするところである。



萩原守衛「彫刻家の見たる美人」には、こんな批評がある。
《顏の輪廓なども、西洋人の方は、多年の經驗が旨く表情的になつて、曲線も端麗に出來てるが、日本人は之れと反對に、昔から成るべくは喜怒哀樂を外に出さないといふやうな、女大學流の教育を受けて來たものだから、自然に表情も鈍ぶくて、一般に顏がのつぺりとして締りがない。》





*1:夏目漱石「幻影の盾」には「半時なりとも死せる人の頭腦には、喜怒哀樂の影は宿るまい。」という一節がある。別角度から見ても漱石が抑圧型であることが知れるだろう。

*2:菊池寛「勝負事と心境」にも用例がある。「勝負事の世界も、また別世界である。将棋なら、その一局の裡に、新しい世界が拓かれ、新しい喜怒哀楽があるからである。どんな貧乏人でも、将棋を指して居れば手に金銀を沢山持つことが出来、ゆたかな気がするのである。そして、そのゆたかな気は、可なりリアルで、実生活の労苦を充分忘れるのに足るほどである。そして、実生活では、一度も人に優越を感じたことのない男が、町内で盤面では誰よりも偉くなつてゐるのである。」

*3:坂口安吾「日本文化私観」には「人は必ず死ぬ。死あるがために、喜怒哀楽もあるのだろうが、いつまでたっても死なないと極ったら、退屈千万な話である。生きていることに、特別の意義がないからである。」という一節もある。