ナンセンザンミョウ




 南 泉 斬 猫






(意味不明、解釈不能
「南泉」は、禅僧の名前。南泉普願。「斬猫」は「ネコヲキル」と読んでもよい。



 ★



禅宗公案の中でもとりわけ難解とされるものの一つ。
無門慧開『無門関』の第十四則には、こんな話がある。
唐の時代。南泉和尚という名僧の山寺に一匹の子猫が現れた。東堂の僧たちと西堂の僧たちの間で争いが起きた。南泉和尚は子猫の首をつかんで「大衆道ひ得ば即ち救ひ得ん。道ひ得ずんば即ち斬却せん」と問うたが、答えがないので、子猫を斬殺してしまった。寺に帰ってきた高弟の趙州は、南泉和尚からことのあらましを聞くと、履物を脱いで、それを頭上に乗せて外出した。南泉和尚は「趙州があの場にいれば、子猫は助かったのに」と嘆息した。
《南泉和尚因東西堂爭猫兒。泉乃提起云、大衆道得即救、道不得即斬却也。衆無對。泉遂斬之。晩趙州外歸。泉擧似州。州乃脱履安頭上而出。泉云、子若在即救得猫兒。》
いろいろな解釈があり得るだろうが、趙州のくだりに私は、以前に書いた「冠履倒易」という四字熟語を連想する。「冠履を貴んで頭足を忘る」(『淮南子』)というやつなのだが、見当外れだろうか。



 ★



『御伽草紙』の「猫の草紙」に、次のような用例が見える。
《猫のいはれやう、近頃神妙也。なんせんざんみゃうの心を思へば、きるるともいかで、かへん》



 ★



三島由紀夫金閣寺』は、この公案をモティーフにした金字塔。そこでたとえば、柏木にこんなことを言わせている。



《「『南泉斬猫』か」と柏木は、木賊の長さをしらべて、水盤にあてがつてみながら答へた。「あの公案はね、あれは人の一生に、いろんな風に形を変へて、何度もあらはれるものなんだ。あれは気味のわるい公案だよ。人生の曲り角で会ふたびに、同じ公案の、姿も意味も変つてゐるのさ。南泉和尚の斬つたあの猫が曲者だつたのさ。あの猫は美しかつたのだぜ、君。たとへやうもなく美しかつたのだ。目は金いろで、毛並はつややかで、その小さな柔らかな体に、この世のあらゆる逸楽と美が、バネのやうにたわんで蔵はれてゐた。猫が美の塊まりだつたといふことを、大ていの註釈者は言ひ落としてゐる。この俺を除けばね。ところでその猫は、突然、草のしげみの中から飛び出して、まるでわざとのやうに、やさしい狡猾な目を光らせて捕はれた。それが両堂の争ひのもとになつた。何故つて、美は誰にでも身を委せるが、誰のものでもないからだ。美といふものは、さうだ、何と云つたらいいか、虫歯のやうなものなんだ。それは舌にさはり、引つかかり、痛み、自分の存在を主張する。
たうとう痛みにたへられなくなつて、歯医者に抜いてもらふ。血まみれの小さな茶いろの汚れた歯を自分の掌にのせてみて、人はかう言はないだらうか。『これか? こんなものだつたのか? 俺に痛みを与へ、俺にたえずその存在を思ひわづらはせ、さうして俺の内部に頑固に根を張つてゐたものは、今では死んだ物質にすぎぬ。しかしあれとこれとは本当に同じものだらうか? もしこれがもともと俺の外部存在であつたのなら、どうして、いかなる因縁によつて、俺の内部に結びつき、俺の痛みの根源となりえたのか? こいつの存在の根拠は何か? その根拠は俺の内部にあつたのか? それともそれ自体にあつたのか? それにしても、俺から抜きとられて俺の掌の上にあるこいつは、これは絶対に別物だ。断じてあれぢやあない』
 いいかね。美といふものはさういふものなのだ。だから猫を斬つたことは、あたかも痛む虫歯を抜き、美を剔抉したやうに見えるが、さてそれが最後の解決であっつあかどうかわからない。美の根は断たれず、たとひ猫は死んでも、猫の美しさは死んでゐないかもしれないからだ。そこでこんな解決の安易さを諷して、趙州はその頭に履をのせた。彼はいはば、虫歯の痛みを耐へるほかに、この解決がないことを知つてゐたんだ」》



たしかに、この演劇的な台詞は直後にすぐ相対化される。だが、この書き手の場合は特に、そういったところに自身の声を分け与えると言ってよい。成否、善悪はともかくとして、ここは自身も愛猫家*1であった三島の独壇場と見て、おそらく間違いあるまい。
 ★



ところで、趙州とは、何者か。
夏目漱石「点頭録」に趙州の説明があるので、引いておく。
《趙州和尚といふ有名な唐の坊さんは、趙州古仏晩年発心と人に云はれた丈あつて、六十一になつてから初めて道に志した奇特な心懸の人である。七歳の童児なりとも、我に勝るものには我れ即ち彼に問はん、百歳の老翁なりとも我に及ばざる者には我れ即ち侘を教へんと云つて、南泉といふ禅坊さんの所へ行つて二十年間倦まずに修業を継続したのだから、卒業した時にはもう八十になつてしまつたのである。夫から趙州の観音院に移つて、始めて人を得度し出した。さうして百二十の高齢に至る迄化導を専らにした。》
こんな伝説があったのかもしれぬが、事実かどうかは、必ずしも保証の限りでない。なお、漱石は趙州が好きと見えて、「夢十夜」の第二夜にも「短刀を鞘へ収めて右脇へ引きつけておいて、それから全伽を組んだ。――趙州曰く無と。無とは何だ。糞坊主めとはがみをした。」という用例がある*2



 ★



宮原龍雄には、ズバリ「南泉斬猫」という推理小説がある。
国宝級の遺構である猫見櫓の放火事件と、若い芸者の惨殺事件。両者の間には、どのような関係が隠されているのか。豊富な物証にもかかわらず犯人=動機の不在に悩まされる「南泉斬猫」は、評価の高い作品とは言い難いが、本格ミステリ史において“動機”の問題を俎上にする際には欠かせぬテクストであるのではないか*3。ミステリに禅問答を持ち込むというアイデアも止目に値すると思う。



 ★



放火事件という奇妙な暗合。
そして、細かいことを言うようだが、宮原の「南泉斬猫」の初出は昭和29年12月であり(『宝石』)、他方、三島の「金閣寺」の初出が昭和31年1月〜10月である(『新潮』)ことを踏まえよう。すると、三島は宮原に触発されたのかもしれないという説が浮上してくるではないか。
猫殺しのモティーフという問題は、さらに今日の坂東眞砂子の日経記事や村上春樹の『海辺のカフカ』あたりにまで及ぶ。殺される猫には気の毒だが、謎は謎を呼び、さらに新たな謎を呼ぶプロセスには文学的な意味で興味深い。





*1:三島の日記(昭和34年5月22日)にはこういう記述もある。「私は書斎の一隅の椅子に眠つている猫を眺める。私はいつも猫のやうでありたい。その運動の巧緻、機敏、無類の柔軟性、絶對の非妥協性と絶妙の媚態、絶對の休息と目的に向かつて駈け出すときのおそるべき精力、卑しさを物ともせぬ優雅と、優雅を物ともせぬ卑しさ、いつも卑怯であることを怖れない勇氣、高貴であつて野蠻、野性に對する絶對の誠實、完全な無關心、残忍で冷酷。・・・これらさまざまな猫の特性は、藝術家がそれをそのまま座右の銘にして少しもをかしくない。」

*2:芥川龍之介漱石への追悼として、次のような句を作っている。「刹竿に動くは旗か木枯か」芥川は漱石の禅への思いをきちんと受け止めていた。

*3:私見によれば、ミステリの臨界を越えて動機の極大を示したのが水上勉飢餓海峡』であり、極小を志したものが宮原龍雄南泉斬猫」であった。