ワキアイアイ



 和 気 藹 々





なごやかな気分が満ちあふれている様子。
「和気藹然」「和気洋々」ともいう。



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李邕「春賦」が出典である。



和気藹として寓に充つ》



和らいだ雰囲気が住まいに満ちているという意である。



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谷崎潤一郎「月と狂言師」に用例がある。



《もっとも家には孫の嫁女や曾孫等もいて和気藹々たる家庭であるとやらで、千作翁の満悦は察するに余りある。》



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内田百輭百鬼園先生言行録」〈四〉の例は、ユーモアたっぷりで楽しい。



《島村哲二君並びに新夫人衣久子さんの多幸なる前途を祝します。又両家のご両親並びに御親戚一統の方々に、心から祝意を表します。男と女が相合して夫婦となり、睦まじく一家を成す。誠に目出たいのであります。我々の祖先、太古原人の時代にあつては、中々かうはまゐらなかつた。昔は人を食つたのであります。人間は誠に美味なる御馳走なのでありまして、これは酋長が食ひました。さうしてその余りを他の者が食ふ。当時にあつては、婦人の位置は申すまでもなく低く寧ろ位置などと云ふのではなくて、一つの物品に過ぎなかつた。その為に女は人間の味を段々に忘れて来る。然るに男も女も、女を通じてでなければ生まれる事ができない。これは我々人類に取って随分窮屈な事ではあるが、又非常な幸福でもあつたのであります。若し殺伐なる男子が女に依らずして生まれ得るものであつたなら、男の殺伐性は累代その度を加へ、ついにはその為にお互いが殺し合つて人類は滅びたでありませう。幸ひにして我々は男女を問はず、女から生まれるのであります。その女は前に申したやうなわけで、次第に人間の味を忘れて来る。従つてその女から生まれた男も亦一代一代と人間の味の記憶より遠ざかり、その結果がついに今日の如く、只今列席の諸君を見ても、格別食べたく思はないのであります。即ち我々がかく一堂に会し、お互いに和気藹藹としてゐられるのは女のお蔭であります。さうして今晩の席に於てその女を代表し、なお将来の平和、新家庭の幸福を約束せられるのは衣久子婦人であります。》



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石川達三には、次のような用例がある*1



《内地の新聞報道は嘘だ。大本営発表嘘八百だ。日本の戦争は聖戦で、日本の兵隊は神兵で、占領地は和気藹々たるものであるというが、戦争とはそんなお芽出度いものではない。痛烈な、悲惨な、無茶苦茶なものだ。》



「和気藹々」という四字熟語はそもそも家庭の雰囲気を表す語であったが、日本が戦争でアジアを家族という詭弁を使って包摂しようとしたことを石川達三は見抜き、「和気藹々」が虚構であることを発いた。買いかぶり過ぎだろうか。いや、買いかぶり過ぎだと私は思わない。



岡部耕大精霊流し」に出てくるおばばのせりふを、ここで私は思い出す。



おばば (笑って)やさしか人が……連れ合いの手紙にゃ、あんた、よかことばかり、あん海のむこうなあ、大陸なあ、別天地のごと、よか話ばかり、ばって、あんんた、その手紙の黒か墨からにゃ、におうとよ、不幸のな、苦労のな、絶望のな、においでわかるよ嘘の、悲しか嘘の……》



彼岸の「和気藹々」は、悪意のあるものから善意のものまで、いろいろあるが、虚構であることが多いという点では変わらない。



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太宰治「親友交歓」にも用例がある。



《昭和二十一年の九月のはじめに、私は、或る男の訪問を受けた。
 この事件は、ほとんど全く、ロマンチックではないし、また、いっこうに、ジャアナリスチックでも無いのであるが、しかし、私の胸に於いて、私の死ぬるまで消し難い痕跡を残すのではあるまいか、と思われる、そのような妙に、やりきれない事件なのである。
 事件。
 しかし、やっぱり、事件といっては大袈裟かも知れない。私は或る男と二人で酒を飲み、別段、喧嘩も何も無く、そうして少くとも外見に於いては和気藹々裡に別れたというだけの出来事なのである。それでも、私にはどうしても、ゆるがせに出来ぬ重大事のような気がしてならぬのである。》



太宰治は「和気藹々」という四字熟語を最も多用する作家であると言ってよいように思うが、彼の語りは「和気藹々」を外見と実質に分けて斜めから見ようとするところに特徴がある。その意味において言えば、彼はやはり近代の作家ではなく、近代を越え得る、あるいは近代から食み出す部分のあった作家であったと私は評価している。



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古井由吉妻隠」にも用例がある。



《分裂騒ぎの真最中には互いに目を吊り上げていがみあい、両側から彼をこづきまわした連中がうち揃って、ほとんど和気藹々と、床に坐りこんで立ち上がれない彼を賑やかに医療室に担ぎこんだ。》



過労で倒れた男が医療室に運び込まれるという何げない場面のように見えるが、一つには詳しく書かれない「分裂騒ぎ」という背景が気にかかると言えば気にかかるし、またこの男に声をかける所在の知れない老婆の〈老いも若きもうちとけて、そりゃあ和やかなものよ。三日に一度、夕飯の後に集まって、円くなって……〉という台詞の「和やかな」円陣をも併せて想起してみると、「和気藹々」から幾重にも、そして柔らかくも徹底的に疎外されていく郊外居住者の像が、細部においてもくっきりと、密に強められていることがわかってくるだろう。この柔らかにして緻密な文体は、今もってして他の追随を許さない。


*1:浜野健三郎『評伝石川達三の世界』参照。