ミョウアンソウソウ




 明 暗 双 双






昼と夜、表と裏、差別と平等、現実と理想、創造と破壊、自と他、個と普遍、ことわりとはたらき、清と濁、色と空……等々の二項が対立することなく一水に融合した宛然たる禅の一境地。
「迷悟双双」「理事不二」「理事無礙」「理事無礙法界」「兼中至」「両鏡相照らして中心影像無きが如し」などともいう。



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圜悟克勤編『碧巌録』の第五六則「頌」が出典である。



《末後句、爲君説。  (末後の句、君が爲に説ふ。)
 明暗雙雙底時節。  (明暗雙雙、底(ナン)の時節ぞ。)
 同條生也共相知、  (同じ條に生まるることは共に相知るも、)
 不同條死還殊絶。  (同じ條に死せざることは還つて殊絶す。)
 還殊絶。      (還つて殊絶す。)
 黄頭碧眼須甄別。  (黄頭と碧眼と須く甄別(ケンベツ)すべし。)
 南北東西歸去來、  (南北東西歸去來(カヘリナンイザ)、)
 夜深同看千巖雪。  (夜深けて同(トモ)に看ん千巖の雪。 》



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夏目漱石漢詩(『新訳漱石詩集』)にも出てくる。



《尋仙未向碧山行  (仙を尋ぬるに 未だ碧山に向かひて行かず)
 住在人間足道情  (人間に住在するも 道情足る)
 明暗雙雙三萬字  (明暗雙雙 三萬字)
 撫摩石印自由成  (石印を撫摩しつつ 自由成る) 》



久米正雄芥川龍之介に宛てた手紙の中にこの七言絶句が見える。
《あなたがたから端書がきたから奮發して此手紙を上げます。僕は不相變「明暗」を午前中書いてゐます。心持は苦痛、快樂、器械的、此三つをかねてゐます。存外凉しいのが何より仕合せです。夫でも毎日百回近くもあんな事を書いてゐると大いに俗了された心持になりますので三四日前から午後の日課として漢詩を作ります。日に一つ位です。さうして七言律です。中々出來ません。厭になればすぐ已めるのだからいくつ出來るか分りません。あなた方の手紙を見たら石印云々とあつたので一つ作りたくなつてそれを七言絶句に纏めましたから夫を披露します。久米君は丸で興味がないかも知れませんが芥川君は詩を作るといふ話だからこゝへ書きます。
  尋仙未向碧山行。住在人間足道情。明暗雙雙三萬字。撫摩石印自由成。
(句讀をつけたのは字くばりが不味かつたからです。明暗雙々といふのは禪家で用ひる熟字であります。三萬字は好加減です。原稿紙で勘定すると新聞一回分が一千八百字位あります。だから百回に見積ると十八萬字になります。然し明暗雙々十八萬字では字が多くつて平仄が差支へるので致し方がありません故三萬字で御免を蒙りました。結句に自由成とあるは少々手前味噌めきますが、是も自然の成行上已を得ないと思つて下さい) 》



漱石は『門』などもそうだが、禅の知識がないと立ちゆかないところがある。「明暗双双」という四字熟語の意味を知らずして漱石の絶筆『明暗』を読むこと、書き継ぐことは難しい。逆にこの四字熟語を意識すると、『明暗』もかつて何となく読んでいたときとはおのずと違った印象が得られる。



小宮豊隆の『明暗』解説には、こう書いてある。
《しかし禅語の「明暗双双」といふ言葉の意味がいまだにはっきりと私には分からない。》
この素直な感想に、全くもって同感せざるを得ない。お手上げ。「明暗双双」という四字熟語が重大な鍵を握っていることは承知しているのだが、その肝心の意味が至難なのである。おまけに未完とくるから性質が悪い。私が『明暗』論を書く日は遠そうだ。