バジトウフウ




 馬 耳 東 風






他人の意見に心を止めず聞き流すこと。無知のため理解できないこと。何を言っても無関心で反応がないこと。「呼牛呼馬」「対牛弾琴」「対驢撫琴」「馬の耳に念仏」「東風馬耳を射る」ともいう。



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李白「王十二寒夜独酌に懐ひ有りに答ふ」が出典である。
《吟詩作賦北窓裏、萬言不直一杯水。世人聞此皆掉頭、有如東風射馬耳。》
(詩を吟じ賦を作る北窓の裏、萬言直せず、一杯の水。世人此れを聞き皆頭を掉ひ、東風の馬耳を射るがごとき有り。)



友人から贈られた「寒夜独酌に懐ひ有り」という詩に答えた長詩の一節である。この友人は派手に出世するでもなく、ひとり家に引きこもって詩を作っており、世間は彼のことを評価してくれない。そこで李白は「人間には心地よい春風であっても馬の耳では理解できないさ」と世間を揶揄し、友を慰めたのである。



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蘇軾「何長官に和す、六言次韻」にも用例がある。
《説向市朝公子、何殊馬耳東風。》
(市朝の公子に説くも、何ぞ馬耳東風に殊ならん)



青山の美しい風景を無理解な世間の人に説いても意味がないと揶揄するのである。李白を踏まえている。



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太宰治「家庭の幸福」に用例が見える。
《「官僚が悪い」という言葉は、所謂「清く明るくほがらかに」などという言葉と同様に、いかにも間が抜けて陳腐で、馬鹿らしくさえ感ぜられて、私には「官僚」という種属の正体はどんなものなのか、また、それが、どんな具合いに悪いのか、どうも、色あざやかには実感せられなかったのである。問題外、関心無し、そんな気持に近かった。つまり、役人は威張る、それだけの事なのではなかろうかとさえ思っていた。しかし、民衆だって、ずるくて汚くて慾が深くて、裏切って、ろくでも無いのが多いのだから、謂わばアイコとでも申すべきで、むしろ役人のほうは、その大半、幼にして学を好み、長ずるに及んで立志出郷、もっぱら六法全書の糞暗記に努め、質素倹約、友人にケチと言われても馬耳東風、祖先を敬するの念厚く、亡父の命日にはお墓の掃除などして、大学の卒業証書は金色の額縁にいれて母の寝間の壁に飾り、まことにこれ父母に孝、兄弟には友ならず、朋友は相信ぜず、お役所に勤めても、ただもうわが身分の大過無きを期し、ひとを憎まず愛さず、にこりともせず、ひたすら公平、紳士の亀鑑、立派、立派、すこしは威張ったって、かまわない、と私は世の所謂お役人に同情さえしていたのである。》
脱官僚を掲げる今日の政治の話かと思ってしまうが、この文章では民衆だって美化しない。「馬耳東風」の本義が大きく響いている感がある。



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太宰治人間失格』にも用例が見える。
《一緒にやすみながらそのひとは、自分より二つ年上であること、故郷は広島、あたしには主人があるのよ、広島で床屋さんをしていたの、昨年の春、一緒に東京へ家出して逃げて来たのだけれども、主人は、東京で、まともな仕事をせずそのうちに詐欺罪に問われ、刑務所にいるのよ、あたしは毎日、何やらかやら差し入れしに、刑務所へかよっていたのだけれども、あすから、やめます、などと物語るのでしたが、自分は、どういうものか、女の身の上噺というものには、少しも興味を持てないたちで、それは女の語り方の下手なせいか、つまり、話の重点の置き方を間違っているせいなのか、とにかく、自分には、つねに、馬耳東風なのでありました。》
男性と女性というのは全く別の人種であるとして互いに理解し合えない間柄なのだとすれば、畢竟ここでの男性は“詩趣”を理解しない“民衆”に等しく、ここでの女性は“詩趣”を理解してもらえない“詩人”に同じなのかもしれぬ。太宰の文学は男性側から語られていても、女性側から反照してみたくなる誘惑に駆られるテクストが多いが、『人間失格』のこの部分などもその一つと言えるかもしれない。



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牧野信一「ゼーロン」の用例も興味深い。
《「ちゃんとこの背中に乗せて、深夜の道を手綱を執る者もなくとも、僕の住家まで送り届けてくれた親切なゼーロンであったじゃないかね!」と掻きくどきながら、おお、酔いたりけりな、星あかりの道に酔い痴れて、館へ帰る戦人の、まぼろしの憂ひを誰ぞ知る、行けルージャの女子達……私はホメロス調の緩急韻で歌ったが、ゼーロンは飽くまでも腑抜けたように白々しく埒もない有様であった。鈍重な眼蓋を物憂げに伏せたまま、眼ばたきもせず真実馬耳東風に素知らぬ姿を保ち続けるのみだった。そして、翅音をたてて舞っている眼の先の虻を眺めていたが、不図其奴が鼻の先に止まろうとすると、この永遠の木馬は、矢庭に怖ろしい胴震いを挙げて後の二脚をもって激しく地面を蹴り、死物狂いであるかのような恐怖の叫びを挙げた。私も、思わず彼のに追従した悲鳴を挙げて、その首根に蛙のように齧りつかずには居られなかった、凡そ以前のゼーロンには見出すことの出来なかった驚くべき臆病さである。》
興味深いと言ったのは、ゼーロンが“馬”だからである。ゼーロンもまた詩を解さぬ民衆の隠喩なのかもしれぬ。