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 因 果 応 報






ひとの行いの善悪に応じてその報いがあることを「因果応報」という。
出典は『大慈恩寺三蔵法師伝』(慈恩伝)と言われており、仏教の根本法則である。「前因後果」という言い方があることからも分かるように、前世の行いが後世の報いを決めるというのが原義である。「因果報応」ともいう。
なお、良い行いによって良い報いを受けることは「善因善果」といい、悪い行いによって悪い報いを受けることは「悪因悪果」「悪因苦果」「因果覿面」「積悪之報」などという。併せて「善因善果悪因悪果」と八字熟語にすることもある。



今日では「因果応報」は、仏教的な意義に縛られず、またどちらかというと悪い意味で使われることが多いので「自業自得」「身から出た錆」に近いところもあるようだ。〈因果応報とは言え積年の悪酒が祟ってアルコール中毒症に冒され〉という尾崎士郎『人生劇場 風雲篇』の用例などが、典型だ。



四字熟語を離れるが、「因果の車」「因果の小車」「因果はめぐる小車」「因果は車の輪の如し」「因果は下れる車の如し」といった慣用表現もある。「因果応報」を回転の速い車に喩えたわけである。幸若舞の「本能寺」に、次のような用例が見える。
《人の世の中の因果は車輪のごとくにて、昨日滅ぼす主君の為、今日は我が身の上となる報いの程こそはかなけれ。》
主君である織田信長を殺した明智光秀もすぐに殺されたことを「因果は車輪の如し」と言っている。



このニュアンスに似ている用例を近代で探すと、獅子文六『てんやわんや』の用例がある。
《戦時中に迫害された自由主義者や左翼人は、今や、満身に光を浴びて輝いている。反対に、戦争で威張ったり儲けたりした連中は、暗中にうごめく土鼠となった。因果応報である。》



最後に夏目漱石『明暗』の例も挙げておこう。未完の『明暗』には「因果」という言葉がよく出てくるが、津田と小林のやりとりのなかで「因果応報」の用例も出てくる。
《「だから先刻から僕が云うんだ。君には余裕があり過ぎる。その余裕が君をしてあまりに贅沢ならしめ過ぎる。その結果はどうかというと、好きなものを手に入れるや否や、すぐその次のものが欲しくなる。好きなものに逃げられた時は、地団太を踏んで口惜しがる」
「いつそんな様を僕がした」
「したともさ。それから現にしつつあるともさ。それが君の余裕に祟られている所以だね。僕の最も痛快に感ずるところだね。貧賤が富貴に向って復讐をやってる因果応報の理だね」》



ワーキングプアだの派遣切りだの騒いでいる当今、ここにまた別の味わいが加わるかもしれない。