シンタイハップ




 身 体 髪 膚






からだのすべて、全身。
「しんだいはっぷ」や「しんていはっぷ」といった読み方もある。



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『孝経』の開宗明義章が出典である。
身体髪膚、之を父母に受く。敢へて毀傷せざるは孝の始めなり。》
(身體髪膚受之父母。不敢毀傷、孝之始也。)
「人のからだや髪の毛や皮膚は、すべて父母からいただいた大切なものであるから、痛めつけたり傷つけたりしてはいけない。そうしないことが孝行の始めである」という教えである。



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正岡子規「死後」に用例がある。
《何も身体髪膚を父母に受くなどと堅くるしい理窟をいふのではないが、死で後も体は完全にして置きたいやうな気がする。》
青木新門納棺夫日記』にも通じる何かがここにはあるようで、非常に奥深いものを感じずにはいられない。さしあたり、理窟ではない、感覚としての身体髪膚保存の本能とでも言っておこうか。



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泉鏡花「錦染滝白糸」にも用例がある。



《欣弥 一別以来、三年、一千有余日、
 欣弥、身体、髪膚、食あり生命あるも、一にもって、貴女の御恩……
 白糸 (耳にも入らず、撫子を見詰む。)
 撫子 (身を辷らして、欣弥のうしろにちぢみ、斉しく手を支く。)
 白糸 (横を向く。)
 欣弥 暑いにつけ、寒いにつけ、雨にも、風にも、一刻もお忘れ申した事はない。しかし何より、お健で……》



泉鏡花エクリチュールには、母のモチーフが常に水脈のように地下を走っていて、それがいつでも噴出するが、ここではそのことが「身体、髪膚」という語によって知れる。



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芥川龍之介「虱」は『孝経』を引用する。
《井上のやうに、虱を食ふ人間は、外に一人もゐないが、井上の反対説に加担をする者は可成ゐる。この連中の云ひ分によると、虱がゐたからと云つて、人間の体は決して温まるものではない。それのみならず、孝経にも、身体髪膚之を父母に受く、敢て毀傷せざるは孝の始なりとある。自、好んでその身体を、虱如きに食はせるのは、不孝も亦甚しい。だから、どうしても虱狩るべし。飼ふべからずと云ふのである。……》
虱と身体髪膚という、取り合わせの妙。



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上林暁向田邦子
ズバリ「身体髪膚」を標題にした作家であるが、ここでは向田邦子『父の詫び状』を引いてみよう。
《父も母も、傷ひとつなく育てようと随分細かく気を配ってくれた。それでも、子供はおもいもかけないところで、すりむいたりこぶをつくったりした》
昭和ひとけた世代には、まだ身体髪膚を父母に受くという教えは生きていたということが分かる。



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陳舜臣阿片戦争』にも用例がある。
《中国人は面子を尊重するうえ、身体髪膚これを父母にうく、の孝道観が沁みこんでいる。》
日本人にも沁みこんでいたのだろうが、最近は忘れられてしまった気がしないでもない。これだけ長生きする時代になれば、身体髪膚などと言っていられないということはあるだろうし、親孝行という考え方が古くさいものとして扱われてしまうこともあるのだろうが、せめて正岡子規のどうせ死ぬにしても身体は毀損したくないというあの感覚だけは残ってほしいものだ。