フテンソット




 普 天 率 土






天が覆い、地の続くかぎりのすべての地。全世界。
「率土之浜」「普天匝地」ともいう。
なお「率」を「卒」とする例が少なくないが、それらは書き誤りである。



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詩経』小雅・北山が出典である。



《 溥天之下 
  莫非王土
  率土之濱
  莫非王臣 》



(普天の下 王土に非ざる莫く 率土の浜 王臣に非ざる莫し)



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北村透谷「明治文学管見」は明治維新を次のように記述していた。



《残燈もろくも消えて徳川氏の幕政空しく三百年の業を遺し、天皇親政の曙光漸く升りて、大勢頓かに一変し、事々物々其相を改めざるはなし。加ふるに物質的文明の輸入堤を決するが如く、上は政治の機関より、下万民の生活の状態に至るまで、千枝万葉悉く其色を変へたり。
 旧世界の預言者なる山陽、星巌、益軒、息軒等の巨人は、或は既に墳墓の中に眠り、或は時勢の狂濤に排されて、暁明星光薄く、而して、横井、佐久間、藤田、吉田等の改革的偉人も亦た相襲ぎて歴史の巻中に没し去り、長剣を横へて天下を跋渉せし昨日の浪人のみ時運の歓迎するところとなりて、政治の枢機を握り、既に大小の列藩を解綬し、続いて武士の帯刀を禁じ、士族と平民との名義上の区別は置けども、普天率土同一なる義務と同一なる権利とを享有し、均しく王化の下に沐浴することゝはなれり。》



後の時代から明治を見れば、こうした意義づけや語りのことごとくが欺瞞であったことに気づかざるを得ないのだが、当時の人がどう感じ、どう感じるように促されていたか、その熱狂はよく分かる。もちろん「普天率土」という語が、そもそも王の治める範囲のきわめて広いことを表す四字熟語であり、王そのものを指すこともあったということは、透谷にも正しく理解されている。



福沢諭吉「西洋事情」にも用例がある。
普天の下卒土の浜、均しく是れ人類なれば、(下略)》
福沢の有名な「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と通底する一節である。率土の「率」が「卒」になっているのは、原文のママである。透谷は先の「明治文学管見」で「西洋事情」を引いているので、あるいは「普天率土」の四字熟語も「西洋事情」に触発されたのかもしれない。
となれば、「普天率土」という四字熟語は、単なる一つの四字熟語という域を越えて、明治の思想史を語るためのキーワードになる可能性を秘めている。それはつまり、「明治の革命は既に貴族と平民との堅壁を打破したり、政治上既に斯の如くなれば、国民内部の生命なる「思想」も亦た、迅速に政治革命の跡を追躡したり、此時に当つて横合より国民の思想を刺撃し、頭を挙げて前面を眺めしめたるものこそあれ、そを何ぞと云ふに、西洋思想に伴ひて来れる物質的文明、之なり。」(「明治文学管見」)という透谷―そしてそれはおそらく透谷だけではないのだが―の西洋受容の型に、既に天皇の支配が分かちがたく組み込まれていたということを雄弁に表象してくれる。



『勧商往来』にも用例があることは、まことに示唆的である。



《 大政維新
  普天卒土
  治教洽浹
  文明開化
 》



『勧商往来』は、横尾謙七が作と序を、村田海石が書を、長谷川実信が画を担当した明治初期の習字のテキストなのだが、このテキストが興味深いのは、一般的には舶来品を表す英単語に対して左注の代わりに片仮名で対応しているところであると言われている。だが「普天卒土」(「卒」はママ)と「文明開化」が並記されていたことにも興味を覚えざるを得ない。



明治の革命は、外からの革命であったと同時に、内からの革命であった。つまり不即不離な二重の構造を持った革命であったということが四字熟語からも察せられるというわけだ。しかも、「普天率土」という境界にかぎりのない欲望が、やがて帝国主義と結びついていくという主張ができるわけだが、スケールの大きな議論や過激な論議は不得手だし、それほど単線的ではないとも思うから、これまで看過されてきた「普天率土」という四字熟語の大切さに注意を喚起するに止めて、あとは読者諸賢の想像に委ねておくことにしよう。