ジキショウソウ




 時 期 尚 早






行う時期がまだ早すぎること。「尚早」の「尚」は「なお、まだ」の意。
対義語は「時機到来」。



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W・S・モーゼス「霊訓」(浅野和三郎訳)に次の用例が見える。
《若しもわれ等の述ぶる所が時期尚早で、採用を憚るといふなら、しばらく之を打ちすてて時期の到るを待つがよい。必ずやわれ等の教訓が、人類の間に全面的承認を受くる時代が早晩到来する。われ等は決してあせらない。われ等は常に人類の福祉を祈りつつ、心から真理に対する人類の把握力の増大を祈願して居るものである。》
理想が壮大であればあるほど、漸進主義で行かなければなるまい。そうしないと、いくら正しい理想であっても、現実との懸隔に絶望してしまう。気ぜわしいとき、モーゼスのこのくだりを読んで、待つゆとりを取り戻したいものだ。



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宮本百合子「一票の教訓」には、次のような用例が見える。
《女なら女のことを解決するかもしれない、というぼんやりした婦人たちの期待は、時期尚早のうちに強行された選挙準備のうちに、決して、慎重に政党の真意を計るところまで高められようもなかった。》
芸術と政治ほど拙速を慎まなければならない世界は他にないだろう。だが、浮き世を眺めると、拙速ばかりが目につくのは、いったいどうしたことか。



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三島由紀夫『青の時代』にも用例がある。
《誠の理想社会は犯罪が道徳的判断なしに全く私法的に解決される社会であったが、この刑法の私法化という大目標の提唱は時期尚早なので、裁判手続の合理化と簡易化をひとまず当面の目的に置いて、この目的による数量刑法学の大系のあらましを学位論文に書き上げるつもりであった。》
たしかに「道徳的判断なしに」という一句は嫌いでないし、「当面の目的」は案外まともでもある。けれども、一言で言えば、やはり笑止な小説に描かれた笑止な理想社会というのが、この小説のこの部分に対して私が下す、個人的な寸評である。つまり、この世には永遠に「理想」などというものを宙づりにしておいた方がよいタイプもいるということだ。理想が高かったり、おかしかったりすると、破滅してしまう危険がある。川崎誠という主人公も、三島由紀夫という作者も、結果としてそういうタイプだっただろう。もちろん、そう揶揄する私にだってそのタイプに分類されてしまう要素と可能性を備えていないとは言えきれないわけだけれども……。



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山岡荘八伊達政宗』にも用例がある。
《今すぐ大阪での切支丹狩りは時期尚早、まず京から手をつけさせる。》
ビジネスマンが読む歴史小説にも「時期尚早」の用例は多いようだ。いかに普段「時期尚早」で失敗してきたか。その裏返しのようでもある。ビジネスでは速度が命!の時代とはいえ、急いては事をし損じる。思慮深く、時機到来を待つものだけが成功するのだろう。焦っちゃ駄目よ。急がば回れ!!



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小池真理子無伴奏』にも用例があったので、補足する。
《ちょっとした手違いで子供ができてしまっため、いささか時期尚早だが連れ添う決意を固めた恋人同士。そして、一浪中の受験生とその恋人。》



エマはまだ高校を卒業したばかりだが、妊娠する。相手の祐之介も、大学四年生。私はエマと同い年で、渉は祐之介と同い年という設定である。