カッカソウヨウ




 隔 靴 掻 痒






靴を隔てて痒きを掻く。靴を隔てて跟を掻く。
思い通りにいかず、歯がゆいこと。もどかしいこと。じれったいこと。フラストレーションが募ること。「隔靴掻癢」「隔靴之憾」「隔靴之掻」「掉棒打星」「隔靴爬痒」とも言う。
対義語は「麻姑掻痒」。



 ★



道原編『景徳伝灯録』が出典である。
《棒を掉いて月を討ち、靴を隔てて、痒きを掻くは、甚だしき交渉有り》



 ★



芥川龍之介木曾義仲論」に用例がある。
《如何に彼が其直覚的烱眼に於て、入道相国に及ばざるにせよ、如何に彼が組織的頭脳に於て、信西入道に劣る遠きにせよ、如何に一身の安慰を冥々に求めて、公義に尽すこと少きの譏を免れざるにせよ、如何に智足りて意足らず、意足りて手足らず、隔靴掻痒の憂を抱かしむるものあるにせよ、吾人は少くも、彼が大臣たる資格を備へたるを、認めざる能はず。》
東京府立第三中学校学友会誌』に載った習作だが、しかしレトリックが実に見事である。「如何に」の繰り返し、「智足りて意足らず、意足りて手足らず、」と言いつつの「隔靴掻痒」など、文章力に感心させられる。芥川の文章は痒きに手が届くところが長所でもあり、短所でもある気がする。



 ★



唐木順三「象山と松陰」にも用例がある。
《外国事情を知る方法として、まず外国語に通じるのが手取りばやい手段だが、なお隔靴掻痒の感をまぬがれない。》
外国語というものは、まさに「隔靴掻痒」という四字熟語で表現するにふさわしい不思議なメディアである。どれだけ熟達したとしても何かが一枚挟まっている。



 ★



坂上弘「日々の収集」にも用例が見える。
《しかしたとえ、父が伯父に相談しているのが、母もしくは彼に対する頼みごとであったとしても、伯父には隔靴掻痒の正論で話すより仕方ない問題だった》
この世にはあえて正論、しかも隔靴掻痒の正論を吐かなければならない場面というものがあるようだ。



 ★



調べていて気がついた。意外に「隔靴掻痒」の用例が少ないということに。そして「隔靴の憾み」という使い方が昔、結構あったはずなのに、今では廃れてきたのだということにも。



福沢諭吉森鷗外木下尚江も「隔靴の憾み」の言い回しを使っていた。
「タヴォオテの、あの巻頭の短篇を読んで見れば、多少隔靴の憾はあるとしても、前後の文意で、ニヒト・ドホがまるで分からない筈は無い。」(森鷗外『青年』)
「人伝てにては何分にも靴を隔てて痒きを掻くの憾に堪へぬからです」(木下尚江『火の柱』)



ところが、私たちはもう使わないし、辞書にも多分そのような用例はない。その代わり「隔靴掻痒の感」を使うようになった。実は私自身もよく使うわけだが、これからは「隔靴の憾」という言い方も積極的に使ってみようとへそ曲がりな私は反省をする。「隔靴の憾」が使われないことに「隔靴の憾」を覚えているというわけだ。