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 敬 天 愛 人






天を敬い、人を愛する。天を敬し、人を愛する。
「敬天愛民」「敬天撫民」ともいう。



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この語は、今日ではたとえば敬宮愛子さまのお名前の由来になったり、京セラの社是にもなったりして、たいそう広く知られている四字熟語と言える。
そして、そのきっかけを作ったのはもちろん西郷隆盛が好んで揮毫した座右の銘であったという事実以外にはない。



西郷隆盛「南洲遺訓」には、こうある。



《道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也。》



《道は天地自然の道なるゆゑ、講學の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ。》



西郷隆盛によれば「敬天愛人」は学問の目的でもある。



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ところで、この「敬天愛人」の出典は奈辺に求むべきか。
この議論は、学者の間では割に盛んで知られてもいるのだろうが、一般人は誤解していると思われるので、僭越ながらできる整理を試みてみよう。ちなみに西郷隆盛創始者というわけではない。



康煕帝の扁額がこの語の出典であるという説がある。私は違う考えも持っているが、まだ十分な裏づけが取れないため、ここでの拙速は控える。



中村正直の「敬天愛人説」や『西国立志編』が日本で最初の用例であるという説は、漢籍を別にすれば、たぶん当たっているだろうと思うが、これも即断は慎もう。



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木下尚江「政治の破産者・田中正造」に、次のような例がある。



《明治十三年、彼は群馬栃木両県民六百八十名の連署した国会開設の請願書を携へて、元老院へ出頭した。次の文章は当時の若い志士の手に成つたもので、今日の君等には如何にも幼児のたはむ戯れに見えようが、この稚気の中に当年智者の単純な理想を汲み取つて読んで呉れ。
「伏て惟るに、陛下恭倹の徳あり、加ふるに聡明叡智の才を以てす。夙に興き夜に寝ね、未だ曾て一月も懈らず、天を敬し民を撫するの意、天下に孚あり、而して其効験の未だ大に赫著せざるものは何ぞや。患、憲法を立て国会を開かざるに在る也、夫れ国会を開くは、上下の一致を謀るに在り。上下苟も一致せば、則ち其の患ふる所のものは忽にして消し、其害を為すものは忽にして除き昨日の憂患は乃ち今日の喜楽となり、昨年の窮乏は乃ち今日の富饒と為る也。是故に国会を開く、詢に陛下の叡旨の在る所にして亦人民の切に企望する所也」》



敬天愛人」という語句にこだわりすぎると見えてこないが、「敬天撫民」という言い方も視野に収めて「敬天愛人」の語源をつきとめることができないか。



たとえば「荒平の祭文」の次のような箇所に目が止まる。
《細きかたにて年老いたる人を撫づれば若やぐなり、太きかたにて死たる人を撫づればいきて繁昌するなり。》
これは「しはんぢやうの杖」の効能を伝えているものなのだが、これが「神楽」のための祭文であることを鑑みれば、むろん「敬天愛人」という言葉は見えないが、その精神的な源流はかなり古くまで遡るべきものだということが容易に推測できるのである。この問題は、見た目以上に厄介であると私は見ている。