テンジョウムキュウ




 天 壌 無 窮






天地の無限の広がりとともに、永久に不滅であること。「天地長久」「天長地久」「百載無窮」。



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日本書紀』神代紀が出典である。
《豊葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆、当に天壌と窮まり無かるべき者なり。》
(豊葦原千五百秋之瑞穂国是吾子孫可王之地也、宜爾就而治焉行矣、寶祚之隆當與天壌無窮者矣。)
有名な天孫降臨の段、天照大神が孫の瓊瓊杵尊らに下した三大神勅の一つである。ちなみに『古事記』の天孫降臨の段にも「この豊葦原水穂国は、汝知らさむ国ぞと言依さしたまふ」という同じ内容の文章が見える。



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文部省『国体の本義』に用例がある。
《我が皇位天壌無窮であるといふ意味は、実に過去も未来も今に於て一になり、我が国が永遠の生命を有し、無窮に発展することである。我が歴史は永遠の今の展開であり、我が歴史の根柢にはいつも永遠の今が流れてゐる。》
文部省『臣民の道』にも表れる「天壌無窮」の語は限りなく「万世一系」の意に漸近するが、それが“詩”になっているところで面目躍如たるものがある。しかし、もちろん、保田與重郎に代表される日本浪曼派を連想させるような“詩”であり、はたしてこうした“詩”に陶醉してしまってよいものかどうか。ただ、それとは別に皇国史観でたびたび表出される「天壌無窮」の語を本格的に研究することはあってもよいと思う。



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坂口安吾「投手殺人事件」は、皇国史観で用いられる用語を活用しながら、ユーモラスにズラしてしまう。



《「ふてえぞ。京都の警察は」
 「まア、まア。カンベンしてくれ」
 「よせやい。我等こと、捜査のヒントを与えてやろうと天壌無窮の慈善的精神によってフツカヨイだというのに、こういう俗界へ降臨してやったんだぞ。アン、コラ」
 「すまん、すまん。フツカヨイの薬をベンショウするから、キゲンをなおしてくれよ。ちょうどお午だ。ベントウをたべてってくれ」》



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山岡荘八伊達政宗』にも用例がある。
《肉体は必ず亡滅してゆく約束のものであり、心はこれとは正反対に、天壌無窮を約束された永遠なる生命に所属するものだ。》



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開高健「青い月曜日」にも用例がある。
《万邦に比類なき天壌無窮の民は、さまざまな怪力乱神にとりすがっていた。》