ウヤムヤ




 有 耶 無 耶






1)あるのかないのか、判然としないこと。
2)いいかげんなさま。



もともとは禅の言葉で1の意だったが、いつしか2の意が派生した。
「耶」は疑問の助字。「ありやなしや」と読むこともできるし、「有哉無哉」と書くこともできる。
「曖昧模糊」「雲煙模糊」「空々漠々」「五里霧中」とも言う。



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道原『景徳傳燈録』の次の一節が出典の一つとされる。
 《是れ無なりや、是れ有なりや。》



しかし、そもそもの議論はインド哲学まで遡るはずだから、厳密に典拠を特定することはできない。有耶無耶にしておくに如くは無し。



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論理で突き詰めることをしないとき、あるいは突き詰めることができないときに、はっきりしないもの、納得できないことが現れる。それを日本人は「有耶無耶」の語で表象する。



芥川龍之介「恋愛と夫婦愛とを混同しては不可ぬ」に用例がある。
《又、結婚後に幻滅を感じたら、その上、不愉快な生活を続けるよりも離婚したらよい。商事契約に於て、解約すれば権利も義務もなくなり全然無関係となるやうな具合に、結婚や離婚に対しても、もつとあつさり考へたい。離婚や再婚を罪悪視するのは余りにこだはつた考へ方であると思ふ。況んや見合ひなどした際、どちらか一方が幻滅を感じたにも拘らず、当座の義理や体裁から、これを有耶無耶に葬つて結婚するなどに至つては笑止の極であると思ふ。》
理知的な芥川らしい見解である。もっとも、芥川の場合、自身にも思い当たる節もあるのだろう。いまだにこうした悲劇はなくならないところを見ると、こうした人性を批判するだけでなく肯定する回路も担保したい気もするが、大人の意見だろうか。



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嘉村礒多「神前結婚」にも結婚がらみの用例がある。
《そうした上から世間体はたゞ内縁の妻として有耶無耶に家に入れたい両親の腹だった。》







葛西善蔵「酔狂者の独白」にも用例がある。
《「何をこの洟垂れ野郎奴! 如何に耄碌しても、手前なんかの腹の底が分らないやうな、それほどの耄碌した兄ではないのだ。先祖の位牌の前に対しても、おれの目玉の黒いうちは、家に置くことが出来ない。出て行け! 自分等の場合のことだつて、考へて見たがいゝ、だが、そんなことを言つたつて仕方がないから、お前等はお前等だけのもの。自分は自分だけの人間だから、お互ひに解りつこないのだ。あんな馬鹿親爺ではあつたが、杉の一本も残して逝つて呉れたが、それも震災後で有耶無耶なことになつて、今更らお前等に分けてやるといふやうなものは何もない。そして、俺は、病気で、貧乏で、これから先何年経つたところで、お前等に飯櫃ひとつ持たして分家させるわけにも行かないのだから、戸籍のはうのことは勝手に村の役場の方へ手紙でも出して、分けちまつたらいゝだらう。お互ひに仕方のないことだ……」》
地震のような自然の不可抗力な天災を前には、論理というものが通用しない。有耶無耶にされてしまうだろう。



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小栗虫太郎黒死館殺人事件』にも用例がある。
《相次いで奇怪な変死事件が起ったのだ。最初は明治二十九年のことで、正妻の入院中愛妾の神鳥みさほを引き入れた最初の夜に、伝次郎はみさほのために紙切刀で頸動脈を切断され、みさほもその現場で自殺を遂げてしまったのだ。それから、次は六年後の明治三十五年で、未亡人になった博士とは従妹に当る筆子夫人が、寵愛の嵐鯛十郎という上方役者のためにやはり絞殺されて、鯛十郎もその場去らずに縊死を遂げてしまった。そして、この二つの他殺事件にはいっこうに動機と目されるものがなく、いやかえって反対の見解のみが集まるという始末なので、やむなく、衝動性の犯罪として有耶無耶のうちに葬られてしまったのだよ。》
論理を重んじる探偵小説の場合も「有耶無耶」が標的としてよく出てくる。



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夢野久作「ざんげの塔」にも用例がある。



《餅を入れたのは私である。しかし上等兵殿の風呂敷を盗んだ覚えはない。だから白状しなかったのだ……と。これは事実であるが、世にも苦しい言いわけであった。
 しかしこの言いわけで、その後の取調べは有耶無耶になった。私が新聞紙に包んで置いた餅が、どうしてずっと離れた寝台に寝ている伍長勤務上等兵の風呂敷で包まれていたかという理由も、従って不明のままに終った。》



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樋口一葉「うもれ木」にも、平仮名ながら用例がある。
《憎くむが本義か、捨つるが道か、と許迷って判断の胸うやむやに成る時》
胸の中、人の心も「うやむや」が多い。「人の心のうやむやは知らずや」は「五月雨」の一節だが、一葉は心の「うやむや」を巧みに表現した作家である。



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夏目漱石草枕』にも用例がある。
《静かな庭に、松の影が落ちる、遠くの海は、空の光りに応うるがごとく、応えざるがごとく、有耶無耶のうちに微かなる、耀きを放つ。漁火は明滅す。》
文学にしても、絵画にしても、有耶無耶のうちに芸術の香気が漂うものなのかもしれない。



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あまりに用例が多すぎて、ここでは研究のほんの一端を紹介するに止めたが、それでも長くなってしまった。いつか大江健三郎ノーベル賞受賞スピーチ「あいまいな日本の私」よろしく『有耶無耶な日本の文学』という本を書いてみたいと企んでいる。きっと外国人受けはよいだろう。