ユウジュウフダン




 優 柔 不 断






ぐずぐずしていて物事の決断が鈍くはっきりしないこと。
意志薄弱」「薄志弱行」「遊移不定」「優柔寡断」「優遊不断」ともいう。



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坪内逍遙当世書生気質』に用例がある。
《将たる者に優柔不断は禁物、剛毅果断でなければならぬ。君の優柔不断な態度にはいつもいらいらさせられるよ。》



木下尚江『火の柱』にも用例がある。
《「私が教会などへ行つて居れると思ふか」と、剛造は牧師を睨みつ「私は体の代りに黄金を遣つてある筈だ――イヤ、牧師ともあるものが左様に優柔不断ならば、私の方にも心得がある、子女等も向後一切教会へは足踏みもさせないことに仕よう」》



与謝野晶子「巴里の旅窓より」にも用例はある。
《歐洲の女は何うしても活動的であり、東洋の女は靜止的である。靜止的の美も結構であるけれど、何うも現代の時勢には適しない美である。自分は日本の女の多くを急いで活動的にしたい。而うして、其れは決して不可能で無い許りか、自分は歐洲へ來て見て、初めて日本の女の美が世界に出して優勝の位地を占め得ることの有望な事を知った。唯其れには内心の自動を要することは勿論、從來の樣な優柔不斷な心掛では駄目であるが、其れは教育が普及して行く結果現に穩當な覺醒が初まつて居るから憂ふべき事ではない。》
ぐずぐずしてどっちつかずの人を見ると、いらいらしてしまう。晶子も例外ではなく、日本女性の「優柔不断」にいらいらしている風情である。しかし、何かと評判の悪い優柔不断は、はたして悪なのだろうか?



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太宰治「正義と微笑」の用例も見よう。
《起きてまごまごしていたら、いまは下谷に家を持っている姉さんから僕に電話だ。「あそびにいらっしゃい。」というのだが、僕は困惑した。例の優柔不断の気持から、「うん」と答えてしまった。僕は、本当は、鈴岡さんの家がきらいなのだ。どうも俗だ。姉さんも、変ってしまった。結婚して、ほどなく家へ遊びにやって来たが、もう変っていた。カサカサに乾いていた。ただの主婦さんだ。ふくよかなものが何も無くなっていた。おどろいた。あれはお嫁に行ってから十日と経たない頃の事であったが、手の甲がひどく汚くなっていた。それから、いやに抜け目がなく、利己的にさえなっていた。姉さんは隠そうと努めていたが、僕には、ちゃんとわかったのだ。いまではもう全く、鈴岡の人だ。顔まで鈴岡さんに似て来たようだ。》
鈴村和成『テレフォン』は以前に読んで面白い本だったが、たしかに電話というのは奇妙というかエロティックな道具で、耳元に声だけが届けられる。声だけが届けられるものだから欺されやすい。オレオレ詐欺も電話ならではの手口である。ここでは迂闊にも声に誘惑されて、かつての姉の像をつい彷彿とさせ、うっかり反応してしまったのかもしれない。ここでの「僕」は明らかにかつての姉と現在の姉との間で引き裂かれている。



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清岡卓行「朝の悲しみ」にも用例がある。
《これは、一体どういうことであったのだろうか? 彼はやがてそうした自分のあり方を、内心いくらか皮肉な気持で、やや唐突ではあるが、サルトルがたとえばボードレールのうちに意地悪く辛辣に指摘した優柔不断な反抗の形式になぞらえるようになっていた。彼は大げさな比喩によって諧謔を生みだすことが好きであったが、この場合の自己嘲笑には、時間の推移にかかわるいくらか苦い味わいがあった。》
以前から肉体的な魅力に非常に富んでいて、いっそう色っぽさを増している旧知の既婚女性に惹きつけられない自己を嘲笑するくだり。サルトルが「ボードレール論」において、ボードレールを子供時代への郷愁に籠絡された不毛な反抗者というふうに批判したことを踏まえているわけであるが、妻を亡くして再婚ができない「彼」は妻との思い出に籠絡されている。フランス文学に親炙する者にとっては、「過去を忘れられず、現実と折り合えない状態」を「優柔不断」と表現することもあるというわけだ。しかし、考えてみれば、すべての「優柔不断」は「二つの未来、二者択一を選べない」というよりも、「心の奥底に折り畳んだ過去への未練を捨てきれない」ということのほうが大きいのかもしれない。もちろん、バタイユが言うように、サルトルの批判がはたして正しいのかどうかという問題は残るが、それはまた別の問題である。



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田辺聖子『新源氏物語』にも用例がある。
《源氏のやさしさからかもしれないけれど、そんな優柔不断な返事をされると、迷い多い女心はよけい迷ってしまう。》
先の「彼」も女性の側からすれば、こういう風に見える可能性があるということ。ボードレールはともかく、光源氏は過去に籠絡された男の典型であろう。その意味では『源氏物語』一篇の主題は「優柔不断」なのかもしれぬと思ってしまう。浮舟のような二者択一できない優柔不断もあるからなおのこと、そのように邪推したくなる。もちろん、太宰治もそうであり、というより、あらゆる文学がそもそも優柔不断なものなのかもしれないというふうに理論化してみたい誘惑に駆られるのだが、さすがに拡張し過ぎだろうか? 



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阪井敏郎芥川賞の若者の深層心理』に興味深い指摘がある。
《二〇〇四年の綿矢と金原の作品に出てくる若者は、みな“優柔不断"で“意気消沈”した若者たちの物語だ。しかし今から三〜四〇年前の石原と村上の作品の若者たちはみな、“元気溌溂”で“意気軒高”だ。》
なるほど、石原慎太郎村上龍といったカルペ・ディエム的生き方を基準にすれば、こういう図式になるだろう。そしてそうした図式にも一定の意義はある。しかし、そうしてしまうと、ほとんどすべての文学が女々しく見えてしまうという問題もある。大切なのは「優柔不断」の内実であるだろう。「優柔不断」か「剛毅果断」かといった二者択一ではなく、また世代論でもなく、「優柔不断」の奥に眠る精神、内省、その人の一回きりの生をどこまで深く剔抉できるかという一点こそが大切だと私は信じている。綿矢りさ金原ひとみはともかく、己の「優柔不断」を最深部まで見据えたテクストは大切にしたいと思う。