イクドウオン




 異 口 同 音






皆が口を揃えて同じことを言うこと。皆の意見が一致すること。
「異口同辞」「異口同声」「異人同辞」「衆議一決」「衆口一致」「満場一致」ともいう。



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宋書』が出典の一つであるようだ。
《今之事跡、異口同音、便是彰著、政未測得物之數耳。》



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菊池寛「入れ札」に用例がある。
《みんなは、異口同音に、浅太郎の言い分に賛意を表した。》



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倉田百三親鸞』にも用例がある。
《並み居る人々からは異口同音南無阿弥陀仏の声が出て、堂内に満ちた。》
念仏の凄さは、バラバラの個性を持つ人々が、なぜか同じ言葉を口にしてしまうということによって集団化し“奇跡”の感を覚えさせることにある。ここで「異口同音」という四字熟語を選んだ判断は正しい。*1



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末弘巌太郎「役人の頭」の用例は傾聴に値する。
《ここにおいて私はいいたい。刑や法によって「淳風美俗」をおこそうと考えてはならぬ。みずから確信ある活力ある道徳的の規準を有せざるにかかわらず、なおかつ「民心の統一」に腐心するをやめよ。彼らの美しいといったものは国民もまた異口同音に美しいと合唱した時代はすでに過ぎ去った。一時の例外的現象にすぎない明治の夢を今もなおみていてはならぬ。目をあけて世の中を見よ。暁明はまさに来らんとしている。われわれは、みずから考えみずから行って、みずからの道徳を創造せんとしている。私はかく高唱しつつ、今後の国家と役人とがもっともっと謙虚なものになってほしいと希望するのです。》
傾聴に値するどころか、一字一句残さず、今日にも投げつけてみたい立派な論、正論中の正論であると思う。念仏は結構だが、念仏を悪用し過ぎる傲岸不遜な権力は戴けない。



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尾崎放哉「石」の用例も興味深い。
《石工の人々にためしに聞いて御覧なさい。必ず異口同音に答へるでせう、石は生きて居ります……と。》
一瞬、ふいに、石と対話する人々の共同体が幻視されるような素敵な指摘であるが、もちろんその共同体にこの俳人も属していることはいうまでもない。



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小沼丹「汽船―ミス・ダニエルズの追憶―」の用例も引いてみる。



《――わかりましたか?
 と云った。が、その日本語たるやひどく下手くそなものであった。あとで知ったが、ミス・ダニエルズは十年近く日本にいた。十年近くいて、彼女ほど日本語の出来ない外国人を僕は知らない。しかし、そのとき僕らはこの機逸すべからずと、異口同音に大声に叫んだものである。
 ――ノオ・ノオ。
 異口同音に――しかし、一人だけ例外がいた。それはMという落第坊主で、彼一人はイエス・イエスと叫んだ。するとミス・ダニエルズはその声で彼に眼を留めて、オオ、とか何とか云って懐かしそうな顔をした。しかし、懐かしそうな顔をされてはMも有難くなかったに相違ない。》



授業の光景が彷彿とする名文だと思うが、この一篇が興味深いのは“翻訳”の問題であると思う。たとえば、"I love you."と云われて顔を真っ赧に染めてしまうミス・ダニエルズを取り上げるだけでもそのことは容易に証明されるだろうが、ある種のコミュニケーションの“齟齬”がこの一篇の読みどころとなる。ここでも異口同音でありながら“例外”が出てしまうところが見た目以上に滑稽なのであり、誰か、この小説の〈異口同音/異口異音〉のあわいを徹底的に構造分析し再評価してはくれないだろうか?





*1:補注して云う。この選択は倉田の独創というわけではない。古典に逆らわずに従ったということだと思う。たとえば、『観普賢経』には「時三大士、異口同音、而白仏言」とあるし、『今昔物語集』にも「我等異口同音ニ仏ノ御名を唱ヘテ此苦を済ヒ給へト申サム」という例があるから、このような「異口同音」は古典ではかなり一般的な用い方であったと思われ、ゆえに『親鸞』を書くための粉本に「異口同音」という文字があった可能性があるというふうに推測されるのである。