ココントウザイ




  古 今 東 西






今昔を問わず、洋の東西を問わぬ。要するに、Anytime, Anywhere. いつでも、どこでも見られる普遍にして不変なるものを「古今東西を問わず」という例の慣用句で表すのだ。



私は高校生のころ、たいへんな天の邪鬼で、四字熟語も他人が使う四字熟語は使わないと決めていた。もちろん「古今東西」は、その最たるものだった。



そのような折、本居宣長の文章を読んでいたら「古今雅俗」という言い回しを発見したものだから欣喜雀躍して、当時の書き物はすべて「古今雅俗」で徹そうとしていたくらいだ。ただし、今日は江戸時代とは状況が違うから、懐古趣味とはいえ、どうしても「東西」と言わなければならない局面が出てきて、そういうときは懊悩したものだった。「往古来今」( オウコライコン )と言ったところで、「東西」のニュアンスは出せない。そのとき「『古今東西』という語は、近代になつて重宝された言葉なのだろうなあ」ということを、漠然とではあるが、学んだ。実際、漢和辞典で「古今東西」を引いたら、掲出されていなくてびっくりした記憶が、今も鮮明に残っている。



悔しいから、まずは「東西古今」とひっくり返して使っていたが、どうしても敗北した感じが拭えない。そこで次は「古今雅俗、東西南北」とやった。これは今にして思えば、南北問題を「普遍」の埒外に追放し排除する言葉の制度に対して、ある種の異議申し立てになり得ていたのだが、当時はまだ青く、そのようなことは全く考えてもみなかった。「和漢洋」という言い方も使っていたが、これは三字熟語である。「和洋東西」としたが、漢学を入れないのも、据わりが悪い。



結局、辿り着いた結論は「融通無碍」(「融通無礙」)や「奔放自在」といった四字熟語を代わりにするということだった。行動や思考が型にとらわれず、のびのびしているという意味だ。もちろん、同義ではないから常に「古今東西」の代替たり得るわけでもなかったが、かなり貴重な戦力だった。



もっとも、大人になると、そのようなプライドはどこかに忘れてきてしまったみたいで、融通無礙と言えば聞こえはよかろうが、実に節操なく「古今東西」という語を用い、しかもそこに何の心後れも持たなくなっているのだから、変われば変わるものである。



大切なのは、レーダーのように縦軸と横軸があって、それが上下左右に自在に動くということであり、いかなる境界もやすやすと越境できる行動力と思考力があるかだと開き直るより仕方がない。



今日は雨なので、立山の夕日を見ること叶わず。さみしい。