コウトウムケイ




 荒 唐 無 稽






言動に根拠がなく、しかも現実離れしていて、全くのでたらめに見えることを「荒唐無稽」という。「荒唐」とは『荘子』天下が出典であり、根拠がなく、とりとめのないことを意味する。他方の「無稽」は『書経』を典拠とし、考えに根拠がないことを指す。「無稽」の「稽」は、考えの意。類義の四字熟語には「架空無稽」「奇異荒唐」「荒誕無稽」「荒唐之言」「荒唐不稽」「笑止千万」「無稽荒唐」「妄誕無稽」などがある。



次の文章は坪内逍遙小説神髄』による「ロマンス」の定義である。



《小説は仮作物語の一種にして、所謂奇異譚の変体なり。奇異譚とは何ぞや。英国にてローマンスと名づくるものなり。ローマンスは趣向を荒唐無稽の事物に取りて、奇怪百出もて篇をなし、尋常世界に見はれたる事物の道理に矛盾するを敢て顧みざるものにぞある。小説すなはちノベルに至りては之れと異なり、世の人情と風俗をば写すを以て主脳となし、平常世間にあるべきやうなる事柄をもて材料として而して趣向を設くるものなり。》



逍遙の紹介によれば、「仮作物語」(作り物語)とは“荒唐無稽”な「奇異譚」(ロマンス)と「小説」(ノベル)とに分かれ、西洋では「小説」の方が、八犬伝のような「奇異譚」よりも上位に置かれるという。



小説神髄』は文学史の教科書には必ず載っている聖典だが、これによって近代文学が出発したのだから当然のことである。『小説神髄』の影響は、今日考える以上に強かったと言っていい。けれども、『小説神髄』の小説の定義が、いわゆるnovel以外に対しては抑圧的な機能を持ってしまったことも否みがたい。



それは、たとえば歴史小説に影響した。もちろん、高山樗牛の『滝口入道』などという少数の例外はあるものの、明治の歴史小説の大半にあっては、荒唐無稽な虚構はあくまで史実の漏れを補うものでしかなく、主流からは排除されてしまった。演劇においても同様だったが、オペラだけは少し例外だったようだ。というのも、「荒唐無稽」なものが多いけれども、それは観客を喜ばせる材料と普遍の趣味によるものなのだと逍遙は弁護している。



いま読めば、こうしたジャンル分けには疑問を覚えることも多いし、以後の文芸をひどく窮屈にした気がしないでもないのだが、それは皆が『小説神髄』一冊だけを中心にしてしまったため起こった悲劇であったとも言える。オペラの定義などがよい例だが、逍遙自体に結構、揺れがある。西洋にあるものは肯定し、日本の古いものは否定するという底意こそ一貫すれ、論理的には破綻していたり表面的であったりすることが多い気がするが、間違っているかもしれない。



ちなみに、逍遙によって抑圧されるものは、四字熟語で記載されるケースが多い。最後に、列挙しておこう。



 ・「荒唐無稽」
 ・「趣味一轍」
 ・「鄙野猥褻」
 ・「好憎偏頌」
 ・「特別保護」
 ・「矛盾撞着」
 ・「学識誇示」
 ・「延命長滞」
 ・「詩趣欠乏」



ちなみに、私自身は「荒唐無稽」が大好きである。愛読書は、もちろんセルバンテスの『ドンキホーテ』だ。今朝の立山はきれい。明日は、実際に立山へ行って来ようと思っている。