ヘイダンゾクゴ




 平 談 俗 語



 日常会話で使われるごく普通の言葉を「平談俗語」という。「平談」も「俗語」も普段使いの言葉というほどの意味だ。



 類義語に「俗談平話」というのがあるが、こちらは少しニュアンスが違うらしい。このことについては、高橋英夫さんの「風鈴が鳴る」(『日本経済新聞』2008年8月17日)が興味深いので、少し長めに引用させていただきたい。



《これは前半と後半が入れ替わっているほか、違う字が一つ使われているが、意味はほぼ同じらしく、日常会話のありふれた言葉をさす。以前から「平談俗語」のほうが眼と耳になじんでいたけれど、ある時「俗談平話」は芭蕉にかかわりがあるようだと気がついた。「ぞくだんへいわ」なんて、ぞっとしなかったのだが。
《大小の辞典や参考書から、これは俳諧作法書「二十五箇条」なる本に見える言葉と知った。俳諧は「俗談平話を正さむがためなり」。するとこれは有名な「三冊子」の「高く心を悟りて俗に帰るべし」にも通じていそうだ。でも芭蕉その人の声を感じさせる点ではやはり「三冊子」のほうだろう。
《もう一つ分かったのは「俗談平話」は俳諧研究の分野だけに残り、一般には「平談俗語」と言い習わされるようになったこと。「日本国語大事典」は「平談俗語」の文例に島崎藤村千曲川のスケッチ」、唐木順三道元」を挙げている。「平談俗話」の形なら坪内逍遙小説神髄」にも。私の遊び心はこんな逸脱に時間を費やした。》



 長めに引用したら、私の書くべきことがなくなってしまった……。せめて、芥川龍之介芭蕉雑記」の用例を挙げておくことにしよう。



芭蕉の語彙はこの通り古今東西に出入してゐる。が、俗語を正したことは最も人目に止まり易い特色だつたのに違ひない。又俗語を正したことに詩人たる芭蕉の大力量も窺はれることは事実である。成程談林の諸俳人は、――いや、伊丹の鬼貫さへ芭蕉よりも一足先に俗語を使つてゐたかも知れぬ。けれども所謂平談俗話に錬金術を施したのは正に芭蕉の大手柄である。》



「芥川先生、どうやら『俗談平話』と書くべきだったようですよ。」
「いや、僕は所謂『平談俗話』と書いたまででね。その『平談俗話』を『俗談平話』にしたのが芭蕉の大手柄という意味なのです。」



思わず、泉下の芥川とこんな会話をしてしまった。