シュカクテントウ




 主 客 転 倒






2種類の意味がある。<1>物事の順序・立場・重要度などが逆転すること。<2>主人と客人の立場が逆転すること。<2>の方が本義であろうが、今日では「本末転倒」と区別せず<1>で使う人も多い。読み方は「 シュカク 」としたが、「 シュキャク 」と読んでも差し支えないようだ。



さて、この四字熟語を取り上げて、なぜか思い出すのが、江戸川乱歩「蒐集癖」の一節である。



《歴史家や好事家は過去の他人に関する資料を血眼になって蒐集するが、自分に関するものは蒐集しない。これは主客転倒ではないか。史上の人物の方が自分より偉いから蒐集の価値があると考えるのかもしれないが、そんな他人よりも自分自身への執着なり興味なりの方が強いはずではなかろうか。人々はなぜ他人のものばかり集めて自分のものは顧みないのであろう。自分が一番可愛いのだから、自分蒐集こそ最も意味があるのではないか。自分のものを集めるには自分こそが最適の立場にあり、最も正確を期することもできるわけである。自分自身のものはほうっておいて、他人の作った、学問的にも対した意味のないマッチのペーパーや料理屋の引札なんか集めている人の気がしれない。》



はっきり言って、私はこの文章に説得されない。いや、おそらく私に限らず、多くのコレクターが反発するのではなかろうか。けれども、自分に関するものへの無関心という点には、妙に納得してしまうのだから不可思議である。自分に関するものだけは乱雑にして、あえて整理したくないという無意識が働くことは認めなければならないのだ。



ところで、この乱歩に対して、澁澤龍彦は次のやうに言つてゐる。



《これは一種のナルシシズムにはちがいないだろうが、何だかひどく散文的なナルシシズムのような気がする。いかにも乱歩らしい論理で、「自己収集」とは傑作だ。しかし、よほど几帳面な人でもなければ、こんな丹念な収集の仕事はつづけられまい。乱歩というひとは、そんな几帳面なひとだったのだ。そんな乱歩の人間としての一面にも、私は大いに興味をそそられるのである。》



『偏愛的作家論』からの引用であるが、「几帳面」という観察が実に鋭い。そして、私は「主客転倒」という四字熟語にも別なレベルで“几帳面”を見出すものである。つまり、主人と客人の転倒という本義に即して使用しているところが“几帳面”だなあ、と。その意味で、宇野千代「或る一人の女の話」の用例も“几帳面”です。



《一種横柄な態度で、番頭が酒をはかってやる。その主客転倒の風景が、家の格式を語っているのか。》



これらの先人の用例(昭和)を見ると、割と最近までは本義が大切にされていたことがわかる。それに比べて、「本末転倒」と大差なく「主客転倒」を用いる私たちの世代は、やはり“ずぼら”なんだろうなあと、ちょっぴり反省する。言葉の移り変わりは仕方のないことだけれども、ニュアンスの違いというものは大切にしたいと思う今日この頃である。



今日は金沢へ行ってきました。たまには白山を見上げるのも悪くない。