カブンショウケン




 寡 聞 小 見






見聞が狭く、わずかな知識しかないこと。世間知らずであること。
自己を謙遜して言うときに使われる。「寡見小聞」「寡見鮮聞」「寡聞鮮見」「浅見寡聞」ともいう。あるいは「寡聞浅学」「寡聞浅識」「小智小見」「浅学寡聞」「浅学短才」「浅学菲才」といった四字熟語もニュアンスとしては近かろう。なお「寡」や「鮮」は「少」と同じく「すくない」と訓読みする。
逆に相手を称えるときの四字熟語には「博覧強記」「博聞強記」がある。見聞や知識が広い上、物覚えもよく、よく記憶しているという意味だ。



自己を謙遜できない人が増えている。俗にいうところの「俺様化」である。そういう私も気をつけなければならないが、謙遜の美風を取り戻すよう、皆で努力したほうがよいのではないか。世界は広く、そして、大きい。森羅万象あらゆることを経験し尽くすことはできないし、図書館にある書物のすべてを読み通すこともできない身ではないか。吉川英治は「我以外皆我師」と揮毫した。今の世の人々が総じて「我以外皆凡愚」と勘違いして生きているのと、なんと対照的であることか。吉川英治新書太閤記』の言葉を噛みしめたい。



《秀吉は、卑賤に生れ、逆境に育ち、特に学問する時とか教養に暮らす年時などは持たなかったために、常に、接する者から必ず何か一事を学び取るということを忘れない習性を備えていた。
だから、彼が学んだ人は、ひとり信長ばかりでない。どんな凡下な者でも、つまらなそうな人間からでも、彼は、その者から、自分より勝る何事かを見出して、そしてそれをわがものとして来た。
――我れ以外みな我が師也
と、しているのだった。》



さらに脱線は続くが、私は「大智如愚」「大智不知」「知者不信」という四字熟語も大切だと思う。本当に秀でたものは自分の才能をひけらかさないから、痴人愚者のように見えるという教えだ。そう、「能ある鷹は爪を隠す」だ。隠したら誰も発見してくれないし評価してくれないのではないか。せっかちな現代では、そういう不安が常に隣り合わせだから難しいのだが、しかし、目利きはどこかに必ずいると信じるのである。「天才は元来嚢中の錐のようなものですから、どの道へ入っても、必ず現れて参ります」とは、佐々木邦『ガラマサどん』からの引用であるが、必ず頭角を現す機会は来ると私の貧しい経験に徴してもそう思う。私の師の口癖であった。「能なしの口叩き」ではいけないよ、と。



さて、話を「寡聞小見」に戻そう。いや、しかし。「寡聞にして」という言いまわしはよく使うし、聞くこともあるのだが、これを四字熟語で「寡聞小見にして」というのは、実はあまり聞いたことがない。私自身が寡聞小見にして、用例を探しあぐねているという落ちだ。『漢書』<匡衡伝>が出典のようだが、寡聞小見の私は未見なのである。謹んで諸賢に寡聞小見をお詫びすると共に、博覧強記の読者にご教示を乞う次第である。