ショウシンショウメイ




 正 真 正 銘






全くうそいつわりのない本物であること。「正銘」とは元を正せば刀剣に正しい銘が刻印されていることを言い、偽りがないという意になった。「正真」も偽りがないという意味であり、同義の二字熟語を並べて強調するタイプの四字熟語である。「正銘正物」「真正真銘」ともいう。



「正真」の読み方だが、古典では「ショウジン」と濁って読むのが正しい。『日葡辞書』や虎明本の狂言から「シヤウジン」と読むのが正統だと知れるからである。しかし、煩いことは言わず、ここでは通則通り「ショウシンショウメイ」とした。



これはよく調べたわけではない言わば私見・謬見の類だから、あまり信用はならぬだろうが、近世では物品や貨幣に対して「正真正銘」を用いていたのに対し、近代では人物そのものを「正真正銘」と評する用法が増えているように感じる。



たとえば、「是れぞ正真正銘の風来先生の作なり」という「戯蝶」序の用例などはしっくり来るし、人間関係を言うにしても「刀屋の半七と深い中ごと正銘の、互ひの誠とぎ入れて」といった近松「長町女腹切」の用例のように刀剣の比喩と絡めながらだと上手いなあと感心もするのだが、「相手に出て来る女主人公は正真正銘のsatanisteなのだ」という森鷗外『青年』のような用例を見ると、物象化とまでは言わぬまでも、人間に対して主義・病気・人種などに関する真贋のレッテルを貼ろうとすること自体に“近代”を感じる。ちなみに‘sataniste’というのは、悪魔主義のこと。



「万一、彼女が正真正銘の精神病患者で、彼女のモノスゴイ呼びかけの相手が、彼女の深刻な幻覚そのものに外ならないとしたら、どうであろう。」という夢野久作ドグラ・マグラ』、「わいらは正真正銘の日本人やぜ」という織田作之助「わが町」など、この種の用例は枚挙に暇がない。



もちろん、一口に近代と言っても、いろいろある。
「自分のは、五匁三銭の安物かもしれないが、兎に角正真正銘の煙草である。」というのは、石川啄木「雲は天才である」の用例である。「砂の斜面に、しみをつくった。正真正銘、まぎれもない水だ!」は、安部公房砂の女」の用例だ。どちらも「正真」「正銘」であることのありがたさが伝わってくる。贋物を掴まされては困るのだ。



「一本の髪の毛が真と偽を分かつ」と言って真偽の見極めが難しいことを教えてくれるのは「ルバイヤート」だが、昨今は万事において、「何が本物で、何が贋物か」を見極めることのひどく困難な時代である。これぞ「正真正銘」と言いきれる目利きが、たいそう羨ましい。