レイリコウカツ




 怜 悧 狡 猾






こざかしく、ずるがしこいこと。



太宰治人間失格』に次の用例がある。
《世渡りの才能。……自分には、ほんたうに苦笑の他はありませんでした。自分に、世渡りの才能! しかし、自分のやうに人間をおそれ、避け、ごまかしてゐるのは、れいの俗諺の「さはらぬ神にたたりなし」とかいふ怜悧狡猾の処生訓を遵奉してゐるのと、同じ形だ、といふ事になるのでせうか。》



堀木の「世渡りの才能だけでは、いつかは、ボロが出るからな」という評価に主人公がショックを受けているところである。主人公の自意識によれば、それは人間への畏怖である。それが他人には「世渡りの才能」に見えてしまう。「才能」と言うのだから、額面通りに捉えれば、褒め言葉であるのだが、主人公はどこまでもネガティブに受け取る。関わりを持たなければ災いを受けなくとも済むという意味の「触らぬ神に祟りなし」という諺で言い換え、さらには「怜悧狡猾」という四字熟語を「処世訓」に修飾させ、「遵奉」などという大袈裟な敬語を用いて、誇張している。自意識と他人の目に映る自身が異なるという問題に取り組んでいるのだろうが、結局、それは自分で自分の首を絞めるのと同じような気がする。他人の言葉に裁かれるのではなく、他人の言葉を過剰に捉える自己の認識によって裁かれるのだ。



最近、発売された『直筆で読む「人間失格」』(集英社新書ヴィジュアル版)によれば、ここはもともとは単に「狡猾」と書いてあったところをわざわざ「怜悧狡猾」と推敲したことがわかる。相手の言葉をあえて大袈裟に誇張して受け取る独り相撲(道化)こそが『人間失格』のテーマと言えるが、「怜悧狡猾」という大袈裟な四字熟語によって「世渡り」を抑圧してしまうことで、生き方はいっそう窮屈な方向に追い詰められていく。



「世渡り」「処世訓」といったものに、何故、これほどまでに嫌悪感を示すのか。戦争というものに対する処し方の反省ならば理解できる。しかし、太宰治は『人間失格』をそういう観点からは切り込まなかった。世俗に対する芸術という方向へ進む。だからこそ評価されてもいるのだろうが、こうした細部から浮かび上がってくるのはむしろ反対の、つまり戦争を回避した人間のコンプレックスでないことの不思議だ。自分の戦争への処し方が処世術ではなく、実は人間への畏怖だったのだという異議申し立てならば理解できるが、漫画を書くことに係る処世術をここまで抑圧するのは尋常ではない。



それ自体、四字熟語の標題を持つ一冊は、実に奇妙なテクストである。私はこれを何かのアレゴリーとして読みたい。