シュウショウロウバイ




 周 章 狼 狽






非常に慌てふためくこと。うろたえ騒ぐこと。



「周章」も「狼狽」もともに「慌てる」の意。同意の語を重ねるペアワード式の四字熟語である。
「狼」・「狽」はともにオオカミの一種であるが、「狼」は前足が長くて後足が短く、「狽」は前足が短くて後足が長いため、「狼」と「狽」はいつも一緒に歩き、一方が離れると倒れてしまうので、そこから「慌てる」の意になったと伝えられる。「周章」の由来については、寡聞にして知らない。



最近、太宰治の用例が続くが、「富嶽百景」に次の例がある。
《「おや、あの僧形のものは、なんだね?」と顎でしやくつた。
 墨染の破れたころもを身にまとひ、長い杖を引きずり、富士を振り仰ぎ振り仰ぎ、峠をのぼつて来る五十歳くらゐの小男がある。
「富士見西行、といつたところだね。かたちが、できてる。」私は、その僧をなつかしく思つた。「いづれ、名のある聖僧かも知れないね。」
「ばか言ふなよ、乞食だよ。」友人は、冷淡だつた。
「いや、いや。脱俗してゐるところがあるよ。歩きかたなんか、なかなか、できてるぢやないか。むかし、能因法師が、この峠で富士をほめた歌を作つたさうだが、――」
 私が言つてゐるうちに友人は、笑ひ出した。
「おい、見給へ。できてないよ。」
 能因法師は、茶店のハチといふ飼犬に吠えられて、周章狼狽であつた。その有様は、いやになるほど、みつともなかつた。
「だめだねえ。やつぱり。」私は、がつかりした。
 乞食の狼狽は、むしろ、あさましいほどに右往左往、つひには杖をかなぐり捨て、取り乱し、取り乱し、いまはかなはずと退散した。実に、それは、できてなかつた。富士も俗なら、法師も俗だ、といふことになつて、いま思ひ出しても、ばかばかしい。》



高等学校の教科書からは削除されている箇所である。「乞食」が差別語だからだろう。ただ、ここでの「乞食」に対する視線はきついものではないようにも思うのだが。教育的配慮も分かるが、断りなしに削除しまくる教科書はいかがなものか。
それはさて、ここでは四字熟語が効果的に用いられている。「周章狼狽」によって「能因法師」(聖)という見立てが「乞食」(俗)に反転するのである。「右往左往」「取り乱し、取り乱し」は「周章狼狽」の同義語である。もともと同義語を並べた四字熟語に、さらに同義語をconduplicatioするところが太宰らしい。



ちなみに「周章狼狽」の類義語は、四字熟語なら他に「心慌意乱」( シンコウイラン )がある。対義語に「神色自若」( シンショクジジャク )「泰然自若」( タイゼンジジャク )がある。



「慌てる」「慌てふためく」「大慌て」「狼狽(ウロタ)える」「取り乱す」「そわつく」「がさつく」「きょろつく」「まごつく」「面食らう」「騒ぐ」「狼狽」「周章狼狽」「恐慌」「栃麺棒」「転倒」「動じる」「泡を食う」「挙措を失う」「浮き足立つ」
上記は、大野晋浜西正人編『類語国語辞典』(角川書店)で「狼狽」の項をを引いてみた結果であるが、これだけ並べると、粗忽者を一堂に会したオリンピックみたいで面白い。



太宰には、四字熟語がよく似合ふ。