イチロクショウブ




 一 六 勝 負






伸るか、反るか。一が出るか、六が出るか。要するに、ばくちの意。天に運を任せた賭けだ。



「一の裏は六」という言葉がある。さいころの一の裏は六であることから、悪いことの後には良いことがあるという意味だ。



「一か八か」という言葉もある。ギャンブル好きの漫才師・故横山やすしが息子の名前を「一八」にしたというのは有名な逸話だが、「一六勝負」にせよ「一か八か」にせよ、ギャンブルに数字はつきものである。『菅原伝授手習鑑』に「サアそこが一か八か生き顔と死に顔とは相好の変る物」という用例があることからも分かるとおり、今も昔も命がけだ。



四字熟語は勝負の気合いを表すのにうってつけな容器なのだろう。他に次のようなものもある。「運否天賦」(ウンプテンプ)「梟盧一擲」(キョウロイッテキ)「緊褌一番」(キンコンイチバン)「乾坤一擲」(ケンコンイッテキ)「真剣勝負」(シンケンショウブ)「速戦即決」(ソクセンソッケツ)



国木田独歩牛肉と馬鈴薯」の書き出しは次のようであった。
《明治倶楽部とて芝区桜田本郷町のお堀辺に西洋作の余り立派ではないが、それでも可なりの建物があった、建物は今でもある、しかし持主が代って、今では明治倶楽部その者はなくなって了った。
 この倶楽部が未だ繁盛していた頃のことである、或年の冬の夜、珍らしくも二階の食堂に燈火が点いていて、時々高く笑う声が外面に漏れていた。元来この倶楽部は夜分人の集っていることは少ないので、ストーブの煙は平常も昼間ばかり立ちのぼっているのである。
 然るに八時は先刻打っても人々は未だなかなか散じそうな様子も見えない。人力車が六台玄関の横に並んでいたが、車夫どもは皆な勝手の方で例の一六勝負最中らしい。
 すると一人の男、外套の襟を立てて中折帽を面深に被ったのが、真暗な中からひょっくり現われて、いきなり手荒く呼鈴を押した。》



次は、戸坂潤『娯楽論』からの引用。
《娯楽の積極性のもう一つの要素は、前の単なる生活契機である娯楽行動一般とは異って、娯楽が夫々の文化形象をなすという点に存する、麻雀・球・碁・将棋・娯楽雑誌・諸演芸を初めとして、各々性質を異にするものを漠然と総称する処の所謂スポーツ(之は体操から一六勝負までも含み兼ねない)社交の催し(パーティー・サロン・其の他)など、夫々いずれも社会に於ける文化形象なのである。娯楽はこういう社会的制度の一つでもあることを記憶せねばならぬ。こうした文化形象を結べるということは、娯楽が単なる暇つぶしや慰安というような消極的な受動物ではない証拠で、文化を形づくることの出来る精神的内容は、常に社会的に健康な養生的で建設的な積極性を有つものなのだ。宗教など、それが文化を超越すると考えられる時は、同時にその阿片性が最も純粋になる時であることを思い出さねばならぬ。――娯楽は社会生活に於ける建築の一種で、エヤバウエン(Er-bauen)(教慰)し、ビルデンし(教育し教養を与える)、ウンテヤハルテンする(Unterhalten――下から支える)(楽します)ものなのだ。尤も之は言葉の洒落に過ぎないが、併しそこに多少象徴的なものがあろう。》



さらに、菊池寛「勝負事と心境」を引く。
《英国人が、嘘のつきつこをしたとき、「私は生涯賭をしたことがない」と云つた男が、一番巧妙なウソとしてほめられたが、それほど英国人は賭が好きである。そんな意味で、人は一六勝負が、すきである。まだるこい事をするよりも、一時に勝負を決し、それに依つて精神的緊張を味はうとする。特に、ダルな人生で、心を緊張させる少数のものの中では、勝負事は最大なものであると云つてもいゝだらう。》



中里介山大菩薩峠』は、スケールの大きな一六勝負。
《「まあお聞きなさい、異人さんはね、そこのところへ目をつけて、日本へお金を貸したがってるんですとさ。それでね、上方の方へはイギリスという国が金主につき、お江戸の方へはフランスという国が金主について、お金をドンドン貸出して戦をさせることになっているんですとさ」
「ばかげた噂だ、毛唐を金主に頼めば、毛唐に頭が上らなくなる、日本を抵当にして、一六勝負を争うようなもんだから、どんなに貧乏したって、毛唐の金で戦ができるか」
「でも、お金は借りたって、返しさえすれば、国を渡さなくても済むんでしょう、貸すというものはどんどん借りて置いて、済せる時に済せばいいじゃないの、戦に勝つ見込みさえつけば、ちっとは高利の金を借りたって直ぐに埋まるでしょう。もし負ければ借りっぱなし、負けた方から取ろうったって、それは貸した方の無理よ。戦争に金貸しをしようというくらいの異人は、太っ腹の山師なんでしょう、そのくらいのあきらめはついていないはずはないから、こんな時節には、貸そうというものを借りないのは嘘よ。で、上方でも、ずいぶんイギリスという国から借りる相談が出来ているという話ですし、こちらでも、小栗様なんぞは、このごろ、六百万両というお金をフランスから借りることになったんですってね、これはごくごく内密なんですけれども、わたしは確かな筋から聞きました」
「ナニ、小栗がフランスから六百万両を借りる!」



夏目漱石『坑夫』の用例が、私は一番好きだ。
《安さんは堕落したと云った。高等教育を受けたものが坑夫になったんだから、なるほど堕落に違ない。けれどもその堕落がただ身分の堕落ばかりでなくって、品性の堕落も意味しているようだから痛ましい。安さんも達磨に金を注ぎ込むのかしら、坑の中で一六勝負をやるのかしら、ジャンボーを病人に見せて調戯うのかしら、女房を抵当に――まさか、そんな事もあるまい。昨日着き立ての自分を見て愚弄しないもののないうちで、安さんだけは暗い穴の底ながら、十分自分の人格を認めてくれた。安さんは坑夫の仕事はしているが、心までの坑夫じゃない。それでも堕落したと云った。しかもこの堕落から生涯出る事ができないと云った。堕落の底に死んで活きてるんだと云った。それほど堕落したと自覚していながら、生きて働いている。生きてかんかん敲いている。生きて――自分を救おうとしている。安さんが生きてる以上は自分も死んではならない。死ぬのは弱い。……》



ギャンブルをむやみに審美化する言説に私は反対であるが、堕落であると訳知り顔に決めつける言説も好きではない。「坑夫」の語り手は安さんの微妙なポジションをよく捉えている。



「当つて砕ける一六主義」(坪内逍遙当世書生気質』)を推奨するものではないし、ゲームにかまけている子らを強く非難するつもりもないのだが、今日に何となく漂う勝負を避ける風潮にときどき違和を覚えることがある。



昨日は、立山がとてもきれいだった。