ジコホンイ




 自 己 本 位






エゴイズム。要するに、自己中心主義のことである。反対語は、他人本位。



この問題は、バランスが非常に難しい。たとえば、話は脇道へと逸れるが、音楽や文章を考えてみよう。演奏家は誰のために演奏するのか。もちろん、聴いてくれる人のためでもあろうが、実は自分も快感なのである。だから、「自分のため」である側面もある。文章にしても、そうだ。読み手のことを考えることは大切だが、じつは「自分のため」に書いているところも多々あるのではないか。この文章だって、運よくどこぞの誰かの役に立てれば望外の喜びだと密かに希ってはいるものの、精神衛生のためにも「自分のため」と告白しておいた方が気は楽である。



愛の最も深いところを考えてみてもよい。自分の快楽を優先するうちは愛ではない。だからと言って相手の恍惚を手助けするだけでも空しい。究極の愛とは、自分も相手も気持ちよくなり、ともに幸せになる瞬間だ。と、言ってみることは至極簡単なことなのだが、実際にはひどく難しいことである。そういえば、北村透谷は、「我牢獄」に次のような言葉を記していた。



《我は白状す、我が彼女と相見し第一回の会合に於て、我霊魂は其半部を失ひて彼女の中に入り、彼女の霊魂の半部は断れて我中に入り、我は彼女の半部と我が半部とを有し、彼女も我が半部と彼女の半部とを有することゝなりしなり。然れども彼女は彼女の半部と我の半部とを以て、彼女の霊魂となすこと能はず、我も亦た我が半部と彼女の半部とを以て、我霊魂と為すこと能はず、この半裁したる二霊魂が合して一になるにあらざれば彼女も我も円成せる霊魂を有するとは言ひ難かるべし。》



エゴイズムを考えるとき、必ず思い出す言葉がある。それはヒュームの『人生論』に出てくる言葉だ。「私の指がかすり傷を負うよりは、世界が絶滅するほうがよい。」



凄い言葉だ。ハッとさせられる。真実を衝いているからだろう。芥川龍之介の「羅生門」なんかは、この言葉を座右に置いて授業してくれる先生があっていい。エゴイズムを考えることは、その反対の他人本位や無私を考えることにつながる。晩年の漱石の「則天去私」を想起してもよい。



エゴイズムというのは、否定されるべき主義と目されやすいが、実はそうではないのである。その意味で、アランの『定義集』は、実に見事にエゴイズムを要約し得ている。



《これは身体の限界に密着した思想で、苦痛や病気を予見し、それらを避け、快楽を選び、それを計量しようとしている思想である。もしエゴイズムが心から、恥ずかしい情愛や卑怯や過誤や不徳を遠ざけようとして、それを監視するならば、エゴイズムは一種の徳になるであろう。しかし、この言葉の意味を拡張することは慣習によって禁ぜられている。》



自己本位ということを考えながら、今日も立山に沈む夕日をしみじみ眺める。夕日はいつも美しい。