セイセイルテン




 生 々 流 転






万物は絶えず生じては変化し、移り変わっていくという意味である。「生々」(「生生」)とは物事が次々と生まれることを表し、「流転」は絶えず移り変わることを意味している。



読み方を「 ショウジョウルテン 」にするか「 セイセイルテン 」にするかで少し悩んだ。起源を第一に考える人ならば「 ショウジョウルテン 」とするところだろう。起源を正しく理解することは大切なことだ。そもそもは仏教語であるのだから「 ショウジョウルテン 」とするのが正しいことは間違いない。「生死流転」「生死無常」「生々世々」という類似の言い方があるが、そのときの読みは「 ショウジルテン 」であり「 ショウジムジョウ 」であり「 ショウジョウセゼ 」であるのだ。背景には「流転輪廻」「輪廻転生」の考え方がある。けれども、今日では「 セイセイルテン 」と読む人が増えているという現実もある。実際、辞書も「セイセイルテン」と掲出しているものの方が多いようだ。また、この四字熟語の言わんとすることは仏教を離れても普遍的な側面があると信じるし、言葉というもの自体が“生々流転”であることもきちんと受け止めておきたいとも常々考えておるから、ここではあくまで便宜的に「 セイセイルテン 」という読みを掲げることにした。



《ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある人と、栖とまたかくのごとし。》



高等学校で暗唱させられた人も多いのではないか。あまりに有名な鴨長明方丈記」の冒頭である。ゆく川の流れは絶ゆることがなく、しかもその水は以前にに見た水ではない。淀みに浮かぶ泡沫は、一方で消えたかと思うと他方では生まれ浮かんで、いつまでも同じ形でいるというためしがない。世の中に存在する人と、その住み処もまたこのようなものだ。こうした無常観は、意識するしないにかかわらず、日本人の思想以前の感性によく染み込んでいるようである。このことはよく尊重しておかなければなるまい。



ただし、日本人特有の感性と決めつけるのは、よくないだろう。もっと広がりのある思想なのではなかろうか。たとえば、パーリ語の「ダンマパーダ」、すなわち法華経にはこう書いてある。「白蓮の葉の上に落ちた水滴のようにはかないものは何か。それは人生である。」中国語にも「風前のともしび」ということわざは生きている。インド、そしてアジアへという広がりを持っている。



煩悩を捨てられず、解脱することがない衆生は、生死を繰り返し、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)という六界を果てもなく巡るという仏教的な解釈が背景にあるのだから、「生々流転」は日本特有の感性であるところもあれば、広くアジアに共有された思想といった側面がある。



しかも、考えてみれば、生死の問題は、仏教徒や日本人だけの問題ではない。「普遍的」という言葉が個人的にあまり好きではないにもかかわらず、それでもあえて先にこの言葉を用いざるをえなかったのは、この意味においてである。つまり、西洋にも、同じとは言わないまでも、よく似た考え方が見られるのである。たとえば、「人間は石鹸の泡のようなものだ」というヴァロの言葉があるし、「生命は息にすぎない。雲は消えてなくなる」という「ヨブ記」の言葉もある。ずばり、ヘラクレイトスの「パンタ・レイ」(万物は流転する)という名言がプラトンによって残されてもいるのであってみれば、「生々流転」は文明論の格好の対象であり、生成の哲学であり、時間は圧縮できないという時間論でもあり、結局のところ普遍的な箴言であると言わざるを得ない。



諸行無常」や「無為自然」といった四字熟語を浮かんでは消える泡沫のごとくに連想しながら思うのだが、これは人間がいかに「永遠不滅」ということに執着した強欲な生き物であったかということの裏返しなのではないか。自尊心や所有欲といったものから離れることがいかに難しいか等々を思って、今日も夕日を眺めるのである。